ああ松島や

「松島や ああ松島や 松島や」は芭蕉の作であると、わたしは、前言をカンタンに撤回して、ここに断言する。
 理由は単純で、そっちのほうが引きずり落としがいがあるからだ。


 で、芭蕉は松島の風景にあまりに感動してこの句を作ったことになっているが、本当は面倒くさかったのだ、ということにしてしまう。


 江戸からの旅もだいぶ長くなった。旅慣れしている芭蕉も、さすがに疲れた。
 松島と他の何か――例えば、カエルとか、遊女とか、兜の下のキリギリスとかと結びつける元気もなかった、と、そういう仮定に立つとどうだろう。


松島や ああ松島や 松島や


「ま、とりあえず地名並べておきゃ、受けるだろ。イッパンタイシューなんてオロカだから」とまあ、投げ遣りな態度と、ある種のスルドく正しい読みでこの句を作った、と見えないこともない。


 疲れをもっと端的に表すなら、こんな句も考えられる。


松島や ふう松島や 松島や


 こちらのほうが、額から落ちる汗をぬぐう手元や、旅の足の痛みを感じられる。今、テキトーに作ったのだが、存外な名句になってしまった。