大宇宙の神秘だの、大自然の叡智だの、「大」方面に思いを馳せるのもいいのだが、身近なものの不思議について考えてみるのも悪くないと思うのである。
例えば、チャック。ファスナー。
チャックとファスナーがどう違うのかは知らない。
ポイントは「ウィルソン」で、チャック・ウィルソンはいるが、ファスナー・ウィルソンという人はたぶんいない、とまあ、そういうことでないのは確かだ。
以後、ウィルソン氏に敬意を表して、チャックで行くが、チャックというのはどういう仕組みになっているのか、目の前で開け閉めしてみても、今ひとつ、よくわからない。
口の両方に小さな歯がずらりと並んでいて、この歯が、金具(何と呼ぶのだ?)が移動すると、うまく噛み合うようにできている。逆にすると、歯が外れる。
金具が通り過ぎるとき、金具と歯との間で何が起きているのか? 歯はなぜこうもきれいに噛み合うのか?
開け閉めしながら観察しても、今いち、よくわからない。何カ知ランガヨクデキテオル、と感心するばかりだ。
普段、何気なく開け閉めしているが、凄いぞ、チャック。やったぜ、チャック。
――いや、チャック・ウィルソンのことではなく。というか、チャック・ウィルソンのことはもう忘れよう。
我々は、時折、チャックのトラブルに見舞われる。
一箇所、歯がうまく噛み合わなかったせいで、金具が前にも後ろにも進まなくなる、というのが、その代表だろう。
力任せにぐいっと引っ張るのだが、金具は前にも動かなければ後ろにも動かない。何かこう、歯がゆく、苛立ち、イーッとなる。
己の心の小ささを思い知らされる瞬間だ。おそらくは、相当修行を積んだ偉い坊さんでも、チャックの金具が動かなくなったら、イーッとなるのではないか。
同時に、いかんともしがたい、という一種、諦めの境地にも至る。
もうひとつよくあるのが、何かを噛むトラブルだ。
小さなラベルとか(鞄のメーカーはなぜチャックのそばにラベルを付けるという不注意を続けているのだろう? チャックを壊させて新しい鞄を買わせようという陰謀ではないか?)、後ろに着ているシャツの端っことかを挟む。
これも往生する。噛みながらも今度はちゃんと閉まるものだから、開けるのに苦労する。これまた、力任せでイーッのパターンだ。
チャックのトラブルは確かにある。そして、我々はイーッとなる。
しかし、それだけ、普段、我々は、何気なく、あるいは何のストレスもなく、チャックを開け閉めしているということなのだ。仕組みもちゃんとわからずに。
チャックの発明者は、本当に凄いやつだと思う。
昔、いろいろな工業製品の開発の歴史についての本を流し読みしたことがある。その中にチャックの章もあった。
確か、チャックはひとりの人による発明ではなく、何人もの工夫によって、少しずつ改良されてきたものだったと記憶している。
しかし、詳しいことは忘れてしまった。
チャックは凄い、凄いと書いておきながら、実はわたしにはその程度の興味しかないのである。まあね、おおむね良好に行っているのだから、それでいいじゃないか。
ところで、さっきからチャックの仕組みを観察するために、穿いているジーンズのチャックを上げ下ろししている。
ハタから見たら、さぞや面妖な人物に見えるであろう。わたしが「あのねえ、あらためて見ると、凄いんですよ」などと言い出したら、不審度はいや増すに違いない。
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「今日の嘘八百」
嘘百十五 埴輪の時代からシェーッはあった。