国家の品格

 藤原正彦の「国家の品格」を読んでみた。


 細かいところで納得できないところや、おそらくは間違い、勘違いと思われるところは多い。
 それらを書き並べていくと、下手すると、新書一冊分できてしまいそうだ。


 なので、大づかみの話だけしたいと思う。


 第四章の冒頭で、藤原正彦はこう書いている。


 論理とか合理を否定してはなりません。これはもちろん重要です。これまで申したのは、「それだけでは人間はやっていけない」ということです。


 ここまでは、わたしもその通りだと思う。おそらく、異論のある人は少ないと思う。


何かを付加しなければならない。その付加すべきもの、論理の出発点を正しく選ぶために必要なもの、それが日本人の持つ美しい情緒や形である。それが私の意見です。


 おそらく、今、引用したところで、藤原正彦がこの本で言いたかったことの大半はカバーしていると思う。これに、倫理としての(新渡戸稲造が彼なりに解釈した)BUSHIDO精神の復活を付け加えれば、ほぼ、大筋はできあがる。


「日本人の持つ美しい情緒や形」についての藤原正彦の意見は、特別なものではない。
 日本という島国は四季折々の変化に恵まれいる。古来、日本人は自然の微細な変化に美を見いだし、時に自然を畏れ、美しい作品を作ってきた、という、よくある話である。


 ただ、彼の論法には特徴があって、「外国人(といっても主に欧米人だが)が、日本人の自然を愛でる心をこんなふうに褒めている」という話と、「外国人はこんな美しさにも気づかない」というケナシが大半を占める(この欧米と比較する論法は、新渡戸稲造の「武士道」に似ている)。


 日本の作品の事例としてあげているのは、「古池や 蛙飛び込む 水の音」レベルだ。
 外からの評価、外のケナシに頼らなければ、「日本人の持つ美しい情緒や形」について語れないのだろうか。


 今日はなるべく皮肉は書かないようにしようと思っていたのだけれども、申し訳ない、我慢できなくなった。


 わたしは、「日本人の持つ美しい情緒や形」の先行きに、いささか不安を覚える者である。