「愛の反対は憎しみではない。無関心である」という言葉がある。マザー・テレサの言葉だ。
人の痛みや苦しみに対して無関心な世の中は殺伐とする。乾燥した肌のように、ちょっとした刺激が新しい痛みになる。
わたしだって、時にはまっとうなことを書くのだ。参ったか(別に参らんでも構わんが)。
では、今の世の中、他人に対して無関心かというと、必ずしもそうではない。むしろ、他人に対して関心が強すぎるんじゃないか、というときもある。
例えば、ある犯罪があったとして、その犯人の家族にまで関心が寄せられる。家族は犯罪と関係ないのに。
もちろん、愛のある関心ではない。人には攻撃してやっつけたい、という欲望がある。そうして、やっつけやすい標的を見つけると、舌なめずりをする。
標的(犯人の家族)は血祭り状態になる。
私の友達に、バイオレンス映画の大ファンがいる。
ヤクザの抗争かなんかで、拳銃の撃ち合いになって血まみれになったり、殴る蹴るで真っ赤っかになったりするのを、うひゃうひゃ、大喜びで見る。
しかし、レイプ・シーンは見ていられないという。
何が違うのかと訊いたら、「同じルールに乗っかっていないところ」だそうだ。
つまり、ヤクザ同士の戦い、殺し合いは、お互い、そういう関係だ、という了解のもと、行われている(映画では)。
しかし、レイプは、片側の一方的なルールを押しつけられる。それは悲惨で見ちゃいられない、というのだ。
ふーん、とちょっと感心した。
考えてみれば、悲惨さは、しばしば立場の強い者が弱い者に一方的にルールを押しつけるとき、生まれる。
例えば、戦争で殺される一般市民のように。あるいは、大地震や台風は、自然のルールを人間に押しつけてくるもの、と考えることもできる。
犯人の家族も、同じルールに乗っかっていないのに、攻撃される。そうして、悲惨な状態に追い込まれる。
攻撃する側は正義の側にいるようなふりをして(あるいは自分でもそう信じ込んでいて)、彼を突き動かしているのは、実は弱い立場の者を餌食にしたい、という欲望だ。
悪とは何か、というのは簡単に答えられることではない。しかし、今日書いた攻撃者は(たとえ本人達の耳に届かぬ世間話だとしても)悪である。
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「今日の嘘八百」
嘘五 あなたは今、夢の中でこれを読んでいるのです。