「ちょいワルおやじ」というコピー(コピーだろう、やっぱ、これは)を誰が考えたのかは知らないが、いい線をついたものだ、と思う。
男にはどこか「ワル」への憧れがある。確か、久住昌之が書いていたのだったと思うが、「オレも昔はワルだった」というのが、過去を振り返るオッサンの常套句だ。
一方で、オッサンは気が小さい。「ワル」をやって全てをパーにする、なんていう冒険まではしたくないorできないのである。
「無軌道な青春」というのは様になっても、「無軌道な中年」というのは岸和田のカオルちゃん*1を別とすれば様にならないのだ。
そんな踏み出せそうな踏み出せないような、ビミョーな感覚が「ちょい」という言葉に込められている。
じゃあ、ちょいワルおやじがどんな「ちょいワル」をやらかすかというと、もちろん、コンビニでビックリマンチョコを万引きするわけではない。
かといって、本マグロを一頭丸ごと万引きする、なんていうのは、豪快すぎるうえ、方角を間違えたワルである。
たとえ雑誌「LEON」に「お子さまにマネできないテクニック満載」と書いてあっても、万引きのことは忘れよう。
まあ、せいぜいがオネエチャンをバーに連れていって、運がよければ、酔った勢いで(ここが哀しいね)、チュー。ぎりぎりの線が、あわよくば一夜か二夜、それも儚き願いナリ、といったところだろう。
いじましいといえば、いじましい。本質的には、ヌード写真を見るために袋とじを破る行為と変わらない。
積極的に出ると「ちょいワルおやじ」になり、消極的だと袋とじをドキドキしながら破ることになるのだ。ああ、男の愛しきナサケナサ。
オッサンの「オレも昔はワルだった」に対して、オバハンの甘い過去が何かというと、「わたしも昔は恋をした」である。これも久住昌之だったと思う。
ということは、オバハンがほんのちょっと冒険心を出すと、「ちょいラブおばん」になるのだろうか。
「ちょいワルおやじ」vs.「ちょいラブおばん」。
お互い、多少の我慢は必要だろうが、案外、需要と供給がうまくかみ合うようにも思うのだ。
割れ鍋に綴じ蓋というか、凸と凹というか、関の山という感じもするけどサ。マ、勝手ニヤッチクリ。