本屋に行くと、自己啓発書と呼ばれる本がわんさとある。
「世の中の人は自己を啓発しまくっているのであるなあ」と感心する。
いっそ、古語を取り入れて、「世の人は自分を啓発しまくっている哉」と詠嘆してもいいくらいである。
もし、ああいう本が世の中からなくなると、どうなるのだろう。
人々が啓発できなくなって、ぼんくらだらけとなり、世界はダメになるのだろうか。
わたしが世界征服を成し遂げた暁には、焚書坑自をやって、ぜひ試してみたい。
夢、成功、自己実現、ということにストレートに取り組む人がいて、それはそれで各人勝手にやればよい。
わたしの場合は、夢といったって、死ぬまで生きていることぐらいだし、成功するのも面倒くさい。物心ついたときに、自己は実現してしまった。
とまあ、ついでに生きているような案配なので、その手の本には寄りつかないでいる。
傍観者としての興味なのだが、「夢」とか、「成功」とか、「自己実現」が大手を振って、のし歩き始めたのはいつ頃なのだろうか。
昔の人(というくくりも曖昧だが)が、そんなに「夢」とか、「成功」とか、「自己実現」を求めまくっていたようには思えない。まあ、求めまくった人もいたろうけど。
じゃあ、求めまくらなかった彼ら・彼女らが、みんながみんな不幸だったかというと、そうも思えないのだ。
あれかな。封建社会、身の程を知る社会というのが終わって、いろんなくびきから解放されてみたら、なんだか、不安定で浮き草のように感じられた。
ある種の安定した気分がほしくて、「夢」とか、「成功」とか、「自己実現」にぶら下がる(人もいる)のかな。自分は「特別な存在」に違いない、と。
確かに、くびきがなかったら、自分は「特別な存在」と思いがちだろうな。
浮き草には、浮き草らしい、ヨッパラったような楽しさもあるのだけどね。