即興の記憶

 人間、日々の暮らしの中では、たいがい、即興で動いている。


 もちろん、箸はこう持つとか、尻はこんな格好で拭くとか、亭主を殴るときは斜め下7度の角度からとか、知らない女性にはこういう体勢で抱きつくとか、各人、それぞれの型というものは持っている。


 しかし、例えば、会話は即興で行われるし、歩くのだって、基本の型はあるにしても、道の凸凹やすれ違う人への対応(挨拶するとか、ラリアットするとか)は即興でやる。
 亭主を殴った後だって、相手の反応次第では蹴りに出るか、殴り続けるかを即興で決める。殴り続けるなら殴り続けるで、殴った手をそのまま返して甲で殴るか、逆の手を繰り出すかとか、いろんな対応法がある。


 ところが、こういう日常のことは、普通、「即興」とは呼ばない。


「即興」という言葉が使われるのは、たいてい、表現に関わる分野だ。


 わたしは、中学、高校の頃に、好んで、即興をやった。


 叔母さんからクラシックギターをもらい、最初は教則本を買ってきて練習していたのだが、Fが〜、というお定まりの理由で、イヤになってしまった。
 おまけに、その教則本に載っていた練習曲が「五木の子守歌」とかで、これではなかなか熱き血潮の中学生の心を燃やすには至らない。


 そんなわけで、ただただギターをめちゃくちゃ弾きする、という即興と言えば即興、デマカセといえばデマカセを繰り返していた。
 まあ、楽しかったといえば楽しかったが、コージョー心というものが、まるでない。基礎テクニックを身につけず、未だにギターはヘタクソだ。


 家にはピアノがあり、習ったことはないが、よくデマカセで弾いていた。


 コードの基礎知識を知った高校時代には、特によく弾いた。


 両手か左手でコードを弾き、右手でデマカセのメロディをピロピロピロリンと弾く程度だったが、これは気持ちよかった。
 何が気持ちいいって、ピアニストに“なったような気”を味わえたのだ。
 独特の、ふわーっと酔ったような、いい心持ちになれた。


 そのときの高揚感、浮遊感――なかなかうまく説明できないのだが、独特の感覚は今でも何となく覚えている。
 わたしが今でも即興ということに興味を持っているのは、そのせいかもしれない。


 なんというかね、瞬間的に触発されたとき特有の心持ち、というのがあるのですよ。


 もっとも、ピアノに関しても基礎テクニックは皆無で、また基礎テクニックを身につけようという気もなかった。
 本人がふわーっといい心持ちになっていても、出てきた音が、人をふわーっといい心持ちにするかどうかは別問題だ。


 家にひとりキチガイ、しかも基礎テクニックなし、という厄介なやつがいるのだから、家族にとっては大迷惑だったろう。


 そういえば、わたしがピアノを弾くと、祖母の部屋から、時々、呻き声が聞こえたな。


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