マザー・テレサの有名な言葉に、「愛の反対は憎しみではない。無関心である」というものがある。
名言だ。今、書き記した瞬間にユニセフに募金しそうになった。
しかし、実際のところはどうなのだろう。
数学的に捉えると、あくまで直感だが、グラフの0が無関心、そこからプラスの方向に愛の軸が伸びていくように思う。
ちなみに、このグラフには目盛りがついている。「愛のメモリー」という。
……大変、失礼しました。即刻、成敗いたしました。
オホン(湯飲みをうっかりひっくり返してしまった講釈師みたいで、やり直しにくいね)。
では、憎しみはどうなのだろう。
愛(プラス)から左のほうへズっていって、無関心の0を越え、マイナス方向へ行くと憎しみかというと、そうではないように思う。なぜなら、愛から無関心を経て、憎しみに至るわけではないからだ。
愛が消えていき、憎悪が育っていく。あるいは、愛は抱きながらも、憎悪が育っていく。そういうプロセスが多いようだ。間に無関心がはさまることは、さほどない。
憎しみは、愛とは別の軸にあるように思う。たとえば、グラフの縦軸が愛、横軸が憎しみ、というふうにだ。
図示すると、こうなる。
もしこれが合っていれば、マザー・テレサは正しかったことになる(のだろう、たぶん)。
このグラフを使うと、いろんな人々のポジションを示せる。
たとえば、「♪愛、あなたと、ふ〜たり〜」状態の新婚の人。
もっとも、新婚さんが全てこうだというわけではなくて、新郎は愛情はちきれんばかりだが、新婦はベンチャー株で儲けた新郎の銀行口座への愛情だけがはちきれんばかり、という場合も、まあ、ないではない。
その場合、新郎は図示した通りだが、新婦は新郎に対し、0=無関心の位置にいることになる。
何というか、その、人生模様、ジャクソン・ポロックの絵の如し、ですねえ。
ラブラブの新婚さんも、ずっと生きていくうちにいろいろあって、こういうふうになってしまう場合もある。
次のケースは、離婚する気も特にないけど、ラブラブでもない。淡々と日常が続くうちに行き着く地点。
こうやって醒めた目で見てみると、怖いような気もしてくる。
もちろん、愛憎、入り乱れる場合もある。たとえば、女とそのヒモの情、なんていうのは、なかなかまわりから見ているだけでは、うかがい知れない。
八代亜紀の「雨の慕情」は、そうした千々に乱れる心の機微を見事に表現した名曲だ(ヒモについての歌じゃなさそうだけど)。グラフで見てみよう。
私はゴシップに興味がないので、こういう状態にある有名人カップルを挙げることができない。でも、きっとたくさんいるのだろう。
映画「タクシードライバー」(マーティン・スコセッシ監督、ロバート・デ・ニーロ主演)に出てくる少女売春婦(ジョディ・フォスター)とヒモ(ハーヴェイ・カイテル)の関係なんて、まさにこんな感じだったのではなかろうか。
皆様も、毎日、夫とか妻とか恋人とか係長に対する愛憎をこのグラフにつけ、その変化を観察してみてはいかがでしょうか。