先週、遠山の金さんや旗本退屈男を茶化してみた。
そのとき、気がついたのだが、時代劇というのは、とてもいじりやすい。格好の遊び道具だ。
なぜだろう、とつらつら考えるに、まず時代劇には確固たる世界観がある。世界観というのが大げさならば、パターンと呼んでもよい。
そうして――これが一番大きいと思うのだが――基本的に油断している。
何しろ、「遠山の金さん」である。「旗本退屈男」である。
タイトルとしては比較的落ち着いた「水戸黄門」にだって、うっかり八兵衛なんぞという、ふざけた名前の人物が登場する。これを油断といわずして、何という。
おそらく、数ある時代劇の中でも、双璧というべき油断したタイトルは、「暴れん坊将軍」と「桃太郎侍」であろう。
何しろ、将軍が暴れん坊なのだ。お侍が桃太郎だというのだ。
両者とも、もはやタイトルに慣れているからさほど不自然には感じないが、たとえば、「暴力将軍」とか「こぶとり爺さん侍」というタイトルに出くわしたら、「ちょっと、それはどうか」と思うだろう。
要するに、時代劇については、大方の日本人の感覚が麻痺して、ゆるゆるになっている。そうして、その異常さを自覚していない。
一方で、時代劇に対して、多くの人は保守的でもある。
どういうことかというと、油断したタイトルは許される。しかし、それは時代劇としての世界観、パターンから、はみ出てはならないと考えているのだ。
話が小難しくなった。実例で見ていこう。
たとえば、こんな時代劇があっても、まず受け入れられないだろう。
暴れん坊寺社奉行
なぜなら、あまりに地味だからだ。おまけに、ほとんどの人が寺社奉行という役職の仕事をうまくイメージできない。時代劇の世界観から踏み出してしまっている。
同じ理由で、
暴れん坊大老
というのもいけない。そんなジジイに暴れられても困るし。時代劇ならではの油断と自由にも欠けている。
身分、役目ということでいえば、これもダメだ。
足軽退屈男
足軽が退屈しているというだ。「だから、どうした」と言われそうである。
なぜ、足軽が退屈すると受け入れられず、旗本が退屈すると喜ばれるのか。差別意識なのかどうかはよく考えてみる必要があるが、少なくとも、人々の時代劇に対して抱いている固定概念、保守性、というものを、鏡に映して表しているタイトルだと思う。
「桃太郎侍」についてはどうだろう。
金太郎侍
というタイトルには、受け入れられそうな雰囲気もある。しかし、赤い腹掛けに二本差し(どうやって差すのか……)という姿を実際に目にしたら、困ってしまうような気がする。
「母から生まれた金太郎――」というのも、決めゼリフにはなりがたい。熊や鹿を従えて江戸を歩かれても、迷惑するし。
浦島太郎侍
というのも、何だか、困る。「アー、ウー。ここに住んでおった皆は、どこへ行ってしもうたのじゃ!?」と、もの凄いジジイの侍にとりすがられても、「はなさんかジジイ」と、頓知で別の日本昔話を持ち出して、蹴り飛ばすしかないであろう。
ただし、
というのは、案外、いけるかもしれない。
一見、怠け者、無能に見えて、実は剣の達人とか、知恵者、というのは、時代劇のひとつのパターンだからだ。知っているパターンをなぞる、というのは、時代劇の楽しさと安心感の源である。
そうして、そこにこそ、油断の忍び込む隙があるのだ。