山羊(id:yagian:20050213)が現代語訳した今昔物語の「讃岐の国の多度郡の五位が法話を聞いて直ちに出家した話」は美しい。
そうして、輪廻転生とは、本来、こういうことを指したのかではないか、と思う。生悟りの類かもしれないが。
輪廻転生というと、普通は死んでから別の何かに生まれ変わることとされている。
自分の意識、というか、認識を前世とは別の生き物(人間もあればそうでないものも含めて)に持ち越すことのように思われている。少なくとも、私はそう思っている。
じゃあ、来世で黄色ブドウ球菌に生まれ変わったらどうなのか。きゃつらに認識はあるのか、と問われると、それはわからない。
何しろ、私はまだ死んだことがないのだ。というか、死んだ記憶がない。
来世で再び認識を持つのかどうかはわからないし、来世というものが存在するのかどうかも知らない。今のところ、差し迫った問題でもないから、さほど興味もない。逝けばわかるさ、である。
しかし、「讃岐の国の多度郡の五位が法話を聞いて直ちに出家した話」のように、死んだ後で死体が鳥獣に食われ、その血肉となり、あるいは腐って、そこから植物が生えてくること、それを肯定的に捉えるのは、少なくとも私にとっては、納得しやすい死生観だ。
この話にも、「極楽に往生」云々とあるけれども、付け足しに過ぎない。
自分(だったもの)が食われたり、栄養分となって菌類なり、植物なりがそこから育ったりする。これは、自分の存在が分割され、あるいは結合されて別の存在になる、ということだから、それを称して、輪廻転生というのなら、とてもよくわかる。
もしそうならば、火葬より、土葬のほうが仏教の考え方にはふさわしいようにも思う。棺も、桶も、鳥獣が食べたり、植物が生えたりする邪魔になる墓も、ないほうがいいんじゃないか。
あるいは、水葬やチベットの鳥葬も、いい。
しかし、私も死んだら、火葬されるか、少なくともお墓に埋葬されることになるのだろうなあ。そうしないと、市役所の担当の人が困るだろうからだ。
輪廻転生も、ギョーセーシドーにはかなわない、ということだろうか。