菩薩と母性

 西原理恵子の「上京ものがたり」(ISBN:409179274X)を読んだ。
 彼女が高知から上京し、漫画家として売れるまでのことが描かれている。


 西原理恵子は、自分と周囲で起きた濃い出来事を、毒を含ませながら描いてきた。
 しかし、時折、ふとリリカルな面を見せることもあり、「上京ものがたり」ではそのリリカルな面を前面に出している。


 彼女が売れた理由のひとつであろう、大げささ、誇張はなく、むしろ抑えた筆致だ。毒と笑いも、少ない。
 相当、辛かったり、キツかったりした経験も描かれているが、過去の自分に対して過度に感情移入もしていない。
 静かな雨を見ているようで、よい。当時の彼女にとっては、豪雨と干ばつの連続だったのだろうけれども。


 自分の体験したことをもとに、誇張や創作を混ぜて描くという意味では、西原理恵子の作品は私小説ならぬ、私漫画だと思う。
 己の恥部、恥体験もさらけ出さねばならず、キツいだろうなあ、と思うのだが、腹をくくってしまえば、そのうち、慣れてしまうものなのだろうか。


 数々の修羅場をくぐり抜けて、やがて達観した境地に至り、他の人に優しく教え諭せるようになる、というタイプの女性がいる。
 作家では、瀬戸内寂聴と……えー、瀬戸内寂聴と……瀬戸内寂聴
 瀬戸内寂聴しか出てこないが、これは単に私の頭の性能が悪いせいである。


 ともあれ、そういう女性は菩薩的存在のように思う。


 最初は、西原理恵子も、菩薩的存在になりつつあるのかな、と思って、この文を書き出した。しかし、ちょっと違うように思えてきた。


 この人は、母性の人だと思う。母性の人というのが大仰でごリッパに聞こえるなら、お母ちゃんと言ってもいい。菩薩は人を救おうとするけれども、お母ちゃんは世話を焼く。


 彼女のまわりに、いろいろと欠けた部分の多い男達が集まるのは、西原理恵子のそういう部分に惹かれるからなんじゃなかろうか。お母ちゃんになら、甘えられるし、安心できる。そうして、お母ちゃんからすると、「バカな子ほど、可愛い」のである。たぶん。


「上京ものがたり」の中で、漫画家として売れてからの話に、こんなのがある。
 出版社で女の子が泣いていた。父親がガンで、病院で自分の漫画を楽しみにしているのに、連載を打ち切られた、というのだ。
「ひどいね」と同情してから、彼女はこう記す。


でもわるいのはあんただよ。
あんたがつまんないからわるいんだよ。


 これで終わったら、ただの嫌な感じの成功者である。
 しかし、彼女はその後で、こう書くのだ。


このくやしいの、今度上手にかいてごらんよ。


 彼女は、時に毒づきながらも、抱きしめている。自分も、まわりの人々も。


(今日は、キマりました)


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