仏教的

 海外から見ると、どうなのだろう。日本は仏教国ということになるのだろうか。


 きちんと調べたわけではないが、世界の宗教地図なんていうものでは、仏教の色で塗られているような気はする。少なくとも、そういう地図を見たことはある。


 もちろん、日本人の中にはキリスト教徒もいれば、神道の信者もいる。少数だがイスラム教徒もいる。何々教系統とは分けがたい新興宗教の教徒もいる。


 人口比では、仏教徒とされる人が多そうではある。
 ただし、その実態は「家がどこそこの寺の檀家で」程度で、葬式・法事には坊さんに来てもらう。しかし、個人としての行動では、クリスマスも祝えば、神社へ初詣にも行く。そんな人が多いだろう。


 一方で、仏教的な考え方・感じ方が浸透しているのも確かだ。
 「これも何かの縁」という捉え方は、はっきり意識するかどうかはともかく、多くの人が“つい”してしまうだろう。
 「何かのご縁で、イエス様に出会いました」なんてことになると、これはもう、染みついているとしか言いようがない。


 あるいは、「生者必滅、会者定離」とか、「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とか、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という言葉にグッと来るのは、仏教的な考え方・感じ方が行き渡っているからだろう。
 「死して屍、拾う者なし。死して屍、拾う者なし」という大江戸捜査網のダメ押しフレーズが印象的なのも、そこに仏教的な要素が含まれているからだと思う。


 さて、長々と書いてきたが、なぜこんなことを言い出したかというと、少子高齢化について考えていたからだ。


 少子高齢化は、日本の抱える大問題とされていて、それに関連する政策、取り組み、議論、口論、襟のつかみ合い、殴り合いがさまざまになされている。
 年金も、消費税も、介護支援も、育児のしやすい環境づくりも、少子高齢化に関連している。
 しかし、どうもなかなか、この、決定打、というものが出ないようだ。


 そこで、私は思うのである。いっそのこと、仏教的アプローチをしてみたら、どうだろうか。


 つまり、少子高齢化については、もうこの際だから、


「諦める」。


 いさぎよい。覚悟=悟りを覚えるというやつだ。これこそ、仏教国(と地図に塗られる国)にふさわしい態度だと思うのである。


 諦めたらどうなるかは、知らんけど。