昨日、東京国際フォーラムで開催されている「人体の不思議展」に行ってきた。
行こう、行こうと思いながら、なんとなく行きそびれていたイベントである。
人間の筋肉、骨格、内臓、血管、神経等々、の標本が展示してあり、それぞれについて思うこと、考えることもあったのだが、いずれも断片的なものだった。なので、書くのはよしておく。
ただ、最後に筋肉と内臓をむき出しにした標本と、脳の標本に触れるようになっていた。これがなかなかよかった。
プラストミック標本というのだそうだが、人体に樹脂を染みこませ、固めて、製作するらしい。
だから、触ると硬い。生きているとき、あるいは死亡直後の手触りとは違うのだが、それでも触ることによって、腑に落ちる部分はあった(腑に落ちるっていうところがいいな)。
ただ、その腑に落ちたことを言葉にするのは難しい。あえて言えば、筋肉の付き具合とか、方向性とか、リズムとか、なのだが、これでは読んでいる人にはわからないだろうなあ。
和室のある方は畳の表面を縦横にゆっくり丁寧に撫でてみていただきたい。い草の織り込まれ方が、目で見るのとはまた違った形でわかるだろう。
私が標本に触れて「腑に落ちたこと」は、それに似ている。
養老孟司と南伸坊の「解剖学個人授業」(isbn:410141033X )で、「人体の不思議展」の標本について、養老孟司(監修委員のひとり)がこう言っている。
もともとさわらなければ意味がありません。五感で感じて欲しいということです。
そういう意味では、触れる標本が少なかったのは、残念だった。
来館者の多さと標本の貴重さから、数が限られてしまったのだろう。本当は全部、触りたかった。うー、触りてえええ。
なんだか、我慢しきれなくなってきた痴漢の人みたいになってきた。
私が触ることによって「腑に落ちたこと」は、字面通りに言うと、「理解」、つまり、「理で解した」ことではない。
他の標本を「見て」、わかった気になったことは、ほとんどが「理解」。考えて出てきた理屈だった。
見てわかることが全て理屈だとは思わないけれど、普段、「見たものについて考える」ことに慣れているのだろう。やはり、つい、理屈で理解してしまおうとしてしまうのである。
そうすると、何か、先入観や型にはまった見方に囚われてしまいがちで、新鮮な面白さというものになかなかたどり着けない。
一方、「触る」ほうは、普段、そんなに集中してやっていないから、そのわかり方、というのが面白かった。
得たものは、「理解」ではなく、「納得」である。
ただ、この「納得」を人に伝えるのは難しい。これはもう、触っていただくのが一番なのだろう。
何なら、私のあちこちを触っていただいてもいい。ただし、女性に限らせていただく。写真選考(全身、胸上、いずれも3カ月以内に撮影した無修正のもの)、面接アリである。