万国博覧会への提案

 2025年に大阪で万博が開かれるそうで、1964年の東京オリンピック→1970年の大阪万博、2020年の東京オリンピック→2025年の大阪万博と、なんだかひとめぐりするみたいである。60年近く間が空いているから、還暦に近い。

 しかし、時代背景は当然変わっているわけで、1970年の大阪万博は人間が月へ行ったの、科学が人類を幸せにするの、高度経済成長だの、と、イケイケどんどんであった。2025年は、このグローバルとネットの時代に、あるいは海外旅行が簡単な時代に何を見せればいいのだろうか。

 名称は「万国博覧会」なのだから、まあ、世界中のいろいろなものを見せるべきではあるのだろう。それはよい。しかし、もはや日本は町中が万国博覧会みたいなものであるし、地球環境なんたら、というのももはや食傷気味だし、なかなかに難しい。

 それで一案なのだが、普通ではなかなかお目にかかれない、あるいは目にしようとしない世界中のものを生で見せてはどうか、とおれは思う。たとえば、シリアなら、でたらめに破壊された街の再現。

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 アメリカなら中西部のフツーの家。

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 中国なら農家の暮らし。

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 日本なら引きこもりの部屋。

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 世界を生で体験するまさに「万国博覧会」になると思うのだが、どうか。あ、やっぱ、ダメ? 

現代お化け

 物が生きたものとして化けるということが日本には昔から伝わっているようで、たとえば、唐傘お化け、提灯お化けなんていうところが有名だ。うろ覚えだが、確か、中国の怪談にも物が化ける話があったと思う。欧米についてはよく知らないが、あまり聞いたり読んだりした覚えがない。

 物が化けるという発想がどこから生まれるのかはなかなかに興味深い。打ち捨てられた物というのは何か寂しく、またなんとなく人に似ているようにも見え、そういう感覚から来るのだろうか。

 とはいえ、現代では物が化けるという話があまりないようで、唐傘お化けにしても、提灯お化けにしても昔の物が昔の話として化けているだけである。

 それらを現代に引き換えるとどうなるのだろうか。ワンタッチ・コウモリ傘お化けとか、懐中電灯お化けになるのか。どうもあまり怖い感じがしない。箒のお化けは今なら掃除機のお化けだが、ダイソンのお化けなんてちっとも怖くない。吸引力が優れるだけである。

 現代の魑魅魍魎はもっぱらネットあたりに生息しているようだから、怖いものほしさというのはそっちのほうに引っぱられているということかもしれない。

菱形論

 世の中には物事を大雑把にふたつに分けて議論するクセのようなものがあって、たとえば、文系・理系なんて分け方がそうだ。

 いろいろな学問分野を見るともちろん多種多様であって、しかもひとつの学問分野の中でも人によってアプローチの仕方は随分と違っている。それを文系・理系と無理くりにふたつに分けて語るのは、余計なバイアスがかかる割にあまり実質的でないように思うのだが、どうだろう。

 たとえば、近代経済学は数学を多用するが、なぜか文系に入れられることが多い。進化論はあまり数学を使わないが、理系に入るようだ。文系・理系という分け方には害があっても、あまり利がないように思う。まあ、きちんとした研究者は文系・理系なんていう大雑把な捉え方はしていないのだろうけど。

 政治方面では右翼・左翼という分け方が一般的だが、おれはギワクのマナザシで見ている。血液型性格判断(統計的にはデタラメだそうである)でさえ、人を4タイプに分けるのに、いろいろな政治の主義主張をふたつ、あるいは中道を加えるとして、それでもたかだかみっつに分けていいものだろうか。

 一般には右翼 - 中道 - 左翼と一直線に並べて把握されるようだが、中道というのは右翼とも左翼とも随分と異なっており、むしろ、右翼と左翼が観念的という点でよく似ていたりする。戦前の日本の民族主義者は社会主義者からの転向組が多かったとも聞く。

 あるいは、個人主義(個人の自由の主義)は右翼だろうか、左翼だろうか。おそらく、どちらの性質にも入らないだろう。

 右翼、左翼という言い方を認めるとしても、実際には右翼 - 中道 - 左翼と直線で結ばれるものではなく、主義主張のバラツキは菱形(◇)に近いのではないかと思う。◇の左端を左翼、右端を右翼とするとして、どちらとも言えない主義主張は◇の中間部のように随分と厚みがある。豊かといってもよい。

 物事をふたつに分ける捉え方を二項対立と呼ぶ。おそらく、人間社会で最大の二項対立は男と女であるが、しからば、中間部は何か。オカマか。しかしこの方面の中間部もいろいろな主義主張、生態、好みがあるらしく、やはり全体としては菱形をなしているのではないか、とかように思うわけであります。

議会と建築空間

 先週、イギリスの庶民院(The House of Commons。下院)のムービーが、英語があまりわからなくても面白いと書いた。

 そのテレビショウ的な面白さはジョン・バーコウ議長の生き生きとした仕切りぶりによるところが大きいのだろう。EUではブレグジット騒ぎでイギリス庶民院の議会風景がテレビニュースなどに映る機会が増え、バーコウ議長の人気が高まっているらしい。ブレグジットが片付いたらバーコウ議長の庶民院が見られなくなってさみしくなる、というドイツ人の書き込みを何かで読んだことがある。実際、妙な言い方だが、YouTubeにあがっている「バーコウ議長もの」にはほとんどハズレがない。

youtu.be イギリス庶民院の活気は、バーコウ議長の生き生きとした司会(?)のせいもあるのだろうが、議院の仕組みによるところもまた大きいと思う。庶民院の議場は与党(向かって左側)と野党(右側)が対峙する形になっている。椅子はベンチ型で、見たところ、議員は自由に座っているようだ。日本の国会のような名札は見当たらない。ベンチ型なので、発言を求めたり、賛同を表明したりと、庶民院の議員は立ったり座ったり忙しい(バーコウ議長はそれを上手い具合にさばき、目に余る行動をした議員には時にユーモアをもって注意を与える)。

 建築空間は、意識するかしないかは別として、人の物の感じ方や考え方、行動に大きく影響を与える。

 たとえば、キリスト教の教会では奥の高いところに十字架やキリスト像が掲げられ、全てがキリストから見渡されているように感じる仕掛けになっている。神父や牧師は十字架あるいはキリスト像の前に立ち、キリストの権威を背景に話をする。日本のお寺の場合は、仏像は建物の奥の影の部分にぼうっと見えるようになっている。お参りする人は仏像と向き合い、坊さんも、仏像を背景にするのではなく、兄弟子のように参拝者とともに仏像に向き合う。参拝者は大きな意味で仏と師弟の関係であるように感じる。

 建築空間が政治の道具として機能する典型的な例が、ヒトラー時代の総統官邸だ。総統官邸には全長145メートルもの長いホールがあり、総統の執務室はその中央にあった。総統の執務室に向かってとぼとぼ歩く間に、人は自然と総統の地位の重さと高さを植え付けられるようになっている。

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総統官邸のホール。全長145m、天井までの高さ9m。

「玄関からレセプション・ホールまで長い道のりを歩けば、彼らはドイツ帝国の国力と壮大さを味わうことになるだろう」とヒトラーは言ったという(「巨大建築という欲望」、ディヤン・スジック著)。

 イギリスの庶民院与野党向かい合う議場の形式は世界の中でも割と特殊で、「イギリス型」と呼ぶそうだ。多くの国の国会議場は正面の演台と円弧状の議席から成り立っている(「大陸型」)。

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フランスの国民議会(下院)本会議場。

 

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ドイツ連邦議会の議場。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/90/United_States_House_of_Representatives_chamber.jpg

アメリカ合衆国下院本会議場。

 

 おそらく、大陸型の議場は演説を主に設計されているのだろう。与党野党の対決あるいは議論を主に設計されている(ように見える)イギリス型とは建築思想が違う。結果、議員の意識や行動も違ってくるだろうと思う。

 では、我が国の議場がどういう建築空間かというと:

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日本の衆議院本会議場。

 

 いわゆる大陸型である。議長席の上には天皇の御座所がある。フランスやアメリカと違って、議員席より一段高いところに大臣席がある。大臣席がある点ではドイツ連邦議会と同じだが、モダンで軽快な家具(簡素と言ってもいい)を使ったフラットな印象のドイツの議場と違って、いかにも古めかしく、威圧感を覚えさせる設計である。現在の国会議事堂は1920年大正9年)着工、1936年(昭和11年)の竣工。戦前の、天皇〜内閣〜承認機関もしくは賛助機関としての国会、という序列が建築空間に表現され、日々、その序列を再確認させているのかもしれない。

 この重苦しい議場の雰囲気と構成が国会議員の感じ方や考え方、行動に影響を与えているところも、案外、大きいのではないか。

イギリス庶民院のムービーが楽しい

 イギリスではEC離脱が3月31日に迫って大騒ぎらしい(いわゆるブレグジット)。メイ首相がECとまとめた合意案が庶民院(The House of Commons。日本では「下院」とも呼ばれるが、「庶民院」のほうが歴史が表れていておれは好きだ)で否決された。ECは再交渉などせん!とそっくり返り、メイ首相はそれでも離脱ギリギリまで粘ろうとしている。

 YouTube庶民院のムービーがたくさんあって、おれには何言ってんだかよくわからないが、その活気を見ているだけで楽しい。

youtu.be 向き合ったベンチ型の議席の間に座っている(時々立ち上がる)ダミ声の愛嬌あるおっさんがジョン・バーコウ庶民院議長だ。「Oooordeeeeeer!」(静粛に)とダミダミ言って、アンタが一番静粛にしとらんじゃないか、とツッコミたくなるんだが、原語は「Order」だから、秩序を守れ、という意味である。

 日本の国会の議長は質問者と回答者の名前を偉そうに読み上げるばかりという印象がある。あとは、議会が紛糾したとき、どうするかまわりとこそこそ相談しているイメージか。

 イギリスの庶民院のバーコウ議長(言語で議長はMr.Speaker)はまさに議会を「仕切って」いて、時にはテレビショウみたいである。

youtu.be

 ヤジは「Yeah」と「No」が入り混じり、羊の群れの鳴き声みたいに聞こえる。

参考:

youtu.be イギリスの庶民院では発言したいものが立ち上がり、議長が指名すれば自由に発言できるようだ。質問者があらかじめ質問を提出し、内閣側が官僚に徹夜で資料を整えさせて答える日本の国会とは、随分違う。

 まあ、バーコウ議長の場合、いささか脱線気味で、釈明に追われるときもあるようだが……。

youtu.be イギリス庶民院は面白い。英語がよくわからなくても面白い。オススメします。

日本語の特性 - 一人称、二人称の豊富さ

 日本語の特性のひとつに、一人称、二人称がたくさんあることが挙げられる。

 一人称の言葉を思いつくままに書くと:

私、僕、俺、おいら、あたい、小生、我輩、自分、わし、あっし、手前、やつがれ、朕、拙者

 まだまだあるだろう。

 二人称:

君、あなた、あんた、おぬし、てめえ、そなた、そち、貴君、貴様、自分(関西弁では一人称でも二人称でも使う)

 日本語学習者にとってはもしかすると日本語の一人称、二人称の多さは厄介なのかもしれない。しかし、慣れると、一人称、二人称を使い分けることで、立場や、自分/相手の捉え方など、いろいろなニュアンスを表現できる。

 同じ音でも文字面を変えると違うニュアンスになる。たとえば、「僕」は「ぼく」と書くか、「ボク」と書くかで、読む側の受け取る感覚が違う。

僕が馬鹿だった。

ぼくが馬鹿だった。

ボクが馬鹿だった。

「ボク」という表現は昭和の終わり頃の若者向け雑誌(ポパイやホットドッグプレスなど)が頻繁に使っていた印象がある。ちょっと気取ったような、カマトトぶったようなふうにおれは感じる。今の若い人は「ボク」という書き方をするのだろうか。

 「俺」も、「おれ」「オレ」でニュアンスが違う。

俺には関係ない。

おれには関係ない。

オレには関係ない。

「オレ」という表現には独特の強さがある。自我の強さ、世間への強がり、コートの襟を立てる風、とでもいうか。

 おれは個人的な文章ではもっぱら「おれ」を使っている。普段の話し言葉でもっぱら「ore」という発音を使っているのと(もちろん、TPOによるが)、「俺」「オレ」だと強すぎる感じがするからだ。

 逆に、一人称を書き分けることで、書いているときの気分やキャラクターも変えることができる。「オレ」と書くと、オレな心持ちになってくるのだ。

 一人称によって自己規定を微妙に変えられるというのはなかなか便利で面白い。興味ある人は、文章を書くとき、いろいろと変えてみると、日本語表現の楽しさを味わえると思う。

 

日本語文の特性 - 語順の自由さ

 前回、日本語は修飾する言葉が先に来るせいで複雑な構造の文章を書くのに向いていない、述語が最後にくるので文を読み終わらないと理解できないと書いた。

 しからば(鹿騾馬)、日本語は言語として劣っているのかというと、そう簡単には言えない。たとえば、英語と比べて便利な特徴もある。ひとつは述語以外の言葉の順番を割と自由にできることだ。

 英語は語順がかなり決まっている。「おれはおまえを愛している」と英語で書くときは、

I love You.

 とこの順番にするよりない。主語、述語、目的語という順番がひらの文では決まっているのだ。

 日本語の場合は、

おれはおまえを愛している。

おまえをおれは愛している。

 のふたつの書き方がある。上の文と下の文はニュアンスが少し違っていて、たいがいは先に来る言葉のほうが重く感じられる。このニュアンスの書き分けをするのが、日本語の文章を書く楽しみのひとつだとおれは思っている。さらには読点を使って、

おれは、おまえを愛している。

おまえを、おれは愛している。

 とすると、また違ったニュアンスが出てくる。

 もっとも、古来、日本ではこういうとき、

月がきれいだ。

 と表現すべきだという説もあり、言語表現はおそらく何語であれ、奥が深い。