資本の論理(笑)と便器の数

 おれは東京の目黒近くに住んでいるから、東海道新幹線にはもっぱら品川駅で乗る。実家が京都にあるので、京都で下りることもままある。

 よく利用される方はご存知だろうが、このふたつの新幹線駅のトイレは小さい。したがって、よく列ができる。

 朝早くに品川で新幹線に乗るときは家で用を済まさず、「駅ですればいいや」と軽い気持ちで出るときが多い。しかし、朝の新幹線駅構内は出張に出かけるサラリーマンが多く、そのうちの少なからぬ割合が「駅ですればいいや」と考えた人々だから、必然的に混み合うことになる。おれは、品川駅で切羽詰まりながら我慢強く並んでいる人々を見ると、勤便、じゃないか、勤勉という言葉を思い浮かべる。

 一方、京都はご存知の通り、世界的な観光都市であって、多くの人が訪れる。しかるに、新幹線京都駅のトイレの小ささは、これがなぜ国際問題にならないのか、不思議なくらいである。

 想像だが、両駅の便器の数は、乗降客の平均値から割り出したんではないか。それではいかんのだ。便器の数は、平均からではなく、最大利用時刻におけるデータをもとにすべきである。なぜなら、排泄行為においては、最大マイナス平均イコール便意我慢度数イコール暴発リスク、だからだ。

 思うに、鉄道会社からすると、トイレはお金を生まずにコストばかりがかかる、邪魔施設なのだろう。トイレを大きくすれば、他の施設を小さくするか、余計な金をかけて駅舎を大きくしなければならない。運用コストも高つくだろう。我慢のできなくなった利用客が駅構内でスプラッタ的暴発悲劇を起こされても困るから、仕方なく設けているのではないかと思う。

 それでも、都内のように複数の交通機関が競争しているならば、好感度に影響するから、各社、それなりに便器の数を増やし、掃除も綺麗に行う。しかし、東海道新幹線は強力なライバルのない半独占事業だから、駅のトイレの整備など、なおざりにされているんではないかと勘ぐりたくなる。

 ま、単に建築の取り都合でなんとなく決めたのかもしれんけど。

四天王の邪鬼

f:id:yinamoto:20120314232441j:plain

 東大寺にある四天王像である。左上から時計回りに持国天増長天多聞天広目天広目天は法華堂の、その他三体は戒壇院のものだ。

 四天王像を前にすると、おれはいつも邪鬼が気になる。「邪鬼」であるから、邪(よこしま)なんだろうが、しかし、奈良時代から千数百年も踏まれ続けて、いささか可哀想だ。同情するおれの心が仏教では弱さなのだろうか。

f:id:yinamoto:20120314232411j:plain

 多聞天に踏まれている邪鬼。表情を拡大してみよう。

f:id:yinamoto:20120314232412j:plain

 悔しそうだが、反省や後悔の色は見られない。むしろ、いつか抜け出してやる、という意志を感じる。邪鬼の邪気は現在進行形である。

f:id:yinamoto:20120314232642j:plain

 広目天の邪鬼。二匹(匹と数えていいのか、わからないけれど)を踏んづけている。

f:id:yinamoto:20120314232643j:plain

 右の邪鬼は苦しいのか、悔しいのか。一方、左の邪鬼は黙然としている。もしかすると、踏まれているうちに悟りを開いてしまったのかもしれないが、あるいはただ寝ているだけかもしれない。

f:id:yinamoto:20120314232344j:plain

 増長天の邪鬼はかなりひどいことになっている。頭を右足で、腹を左足で思いっきり踏んづけられているのだ。

f:id:yinamoto:20120314232346j:plain

 左足で踏まれた腹は、たるみの部分にシワが寄っている。しかし、右足で踏まれた頭はもたげており、不屈の闘志を感じる。もっとも、増長天がぐりぐりと頭を足でもてあそんでいるのかもしれないが。そうだとしたら、増長天はいやなやつだ。

f:id:yinamoto:20120314232348j:plain

増長天は得意げである。増長している。

米朝の「百年目」、志ん朝の「百年目」

 金曜に休みをとって、自転車で東京を走った。上野から浅草へ出て、堀切から荒川の土手を走り、旧中川べりから門前仲町へと抜けた。雲間からぱっと日がさす瞬間が何度もあって、快かった。

 桜(ソメイヨシノ)は場所によって二分咲きくらいだったり、ほぼ満開に近かったりした。桜の下を走ると、やはり浮いた心持ちになる。

 浮いたままに、昨日はiPod桂米朝の「百年目」と古今亭志ん朝の「百年目」を聴いた。

「百年目」は、大店の真面目一筋と思われている大番頭が主人公の噺。実は花街で遊びなれていて、芸者や太鼓持ちをあげて花見にわっと繰り出す。その遊びの現場で主人に出くわしてしまい・・・とまあ、そんな内容だ。

 米朝の「百年目」は主人の風格が素晴らしい。米朝自身、一門においては大店の主人のようなものだし、花街でも風雅に遊んだようだから、最後の番頭に意見するところに貫禄があり、きびしくもあたたかい。

 一方の志ん朝の「百年目」は米朝のほうより笑わせどころが多い。例の唄うような口調が花見気分に合っていて、楽しい。おれは一時、志ん朝ばかり聴いていた時期があって、そのせいで実はちょっとあの唄い調子に飽いてしまった。しかし、花見時分の浮かれた心持ちにはあの口調と、志ん朝自身の華やかな明るさがぴたりと来て、酔える。

 米朝志ん朝の「百年目」は、それぞれの人(にん)が噺に活きていて、いい。

 今日の昼に家の近くのかむろ坂を自転車で下ると、桜並木は満開であった。

米朝十八番

米朝十八番

キング〇〇〇

 映画「レヴェナント」を見た。

 

 

  冒頭でディカプリオ演じる猟師が巨大なヘラジカを撃つシーンがある。それを見て、ふとキングコングのことを思った。よくわからない連想だが、おれの頭の中は乱反射しているから仕方がない。

キングコング」はご存知の通り、巨大なゴリラがニューヨークで暴れまわる映画である。何度となく映画化されている。それだけ魅力的なキャラクターであり、魅力的な設定なのだろう。

「レヴェナント」を見ながら、あのニューヨークで暴れる巨獣がもしヘラジカだったらどうだろうか、と考えた。観客は何かこう、困るのではなかろうか。「いやまあ、暴れるのは勝手ですが・・・」と、大概の人が不得要領を絵にしたような顔をすると思う。

 なぜゴリラだと受け入れることができ、ヘラジカだと困るのだろうか。ヘラジカは人間から遠く、知性があまり感じられないからか(ヘラジカに失礼だが)。それでは、巨大な犬、たとえば巨大なマルチーズがニューヨークで暴れて、エンパイアステートビルをキャインキャインと駆け上ったらどうか。やはり観客は困るだろう。マルチーズが可愛いすぎるというなら、シェパードでも柴犬でもボルゾイでもいい。やはり困ると思う。四つ足の動物は基本、ふさわしくないのだ、コング的な存在として。

 そう考えると、巨大な「ゴリラ」をキングコングに設定したのは絶妙だと思う。感情が人間に近い。強い。二本足で立つ強い動物ということなら熊も考えられるが、感情移入できる度合いでゴリラにはかなわない。

 などとバカなことを考えているうちに「レヴェナント」はあれよあれよと話が進んだ。テーマが復讐という救いのない映画で、実際、ラストまでほとんど救いはなかったがいい映画だった。しかし、おれは頭の片隅で、キングコングチンパンジーだったら、オランウータンだったら、などと考えているのであった。救いがないのはおれの頭かもしれない。

痒みの知覚

 おれはアトピー性皮膚炎で、かれこれ半世紀苦労してきた。生まれるとき、「あー、カイカイカイカイ。尻、カイー」とケツを掻きながらしかるべき場所から出てきたというのは、おれの生まれ育った小学校区でいまだに伝説になっているくらいである。

 そんなわけで今も常にどこかがカイカイカイカイなのであるが、このカイカイカイカイの箇所には特性があると、この頃わかってきた。その時々でカイカイカイカイとなるところは常に二、三ヶ所であって、それ以上は知覚されないのだ。

 たとえば、鼻の中と左の横腹と右のこめかみがカイカイカイカイだとする。すると、後の場所はカイカイカイカイと感じない。そこで、鼻の中と左の横腹と右のこめかみを掻く。アトピーの炎症箇所を掻くのは厳禁だとされているのだが、それはアトピーの苦しみを知らない人間が無責任に言うことである。カイカイカイカイの場所を掻くのはアトピー人にとって無上の喜びである。あああああああ、と、その瞬間、大げさでなく、天にも昇る心持ちである。

 で、天にも昇って一時的にカイカイカイカイがよくなるのは結構なのだが、今度は別の場所、たとえば、ひざ裏や耳の中や左のこめかみがカイカイカイカイ、となる。その箇所がいきなり痒くなるわけではないのだろう。たとえば、ひざ裏や耳の中や左のこめかみが本来痒い状態(要するに炎症を起こしている)であっても、鼻の中と左の横腹と右のこめかみの痒みがそれ以上であれば、おそらく脳は鼻の中と左の横腹と右のこめかみの痒みしか知覚しないのだ。

 痒みを知覚される箇所が限られるのはラッキーとも考えられるが(全身そこらじゅうカイカイカイカイという悲劇を想像してみていただきたい)、しかし、いささか疑念も残る。本来、カイカイカイカイという状態(炎症)は全身あちこちに起きているのだが、単に知覚される場所は大脳の情報処理上、限られるだけなのではないか。つまり、知覚されている場所以外もカイカイカイカイとなっていて、どこかで信号が遮断されているのかもしれず、これはある意味、気づかぬうちにストレスになっているのだとも考えられる。

 意識野の下の無意識野で、おれは常にカイカイカイカイをあちこちで感じているのかもしれない。ただ、意識ののぼらないだけ。実は全身痒いのだ。人生、これストレス。生まれてからずっと実は尻が痒い。

伝説の人

 それぞれの社会や民族に伝説の人というのはあって、我が国であれば、おそらく、ヤマトタケル源義経織田信長西郷隆盛といった人たちであろうと思う。歴史的影響でいえば、おそらく、源頼朝豊臣秀吉徳川家康大久保利通といった人たちのほうが大きいのだろうけれども、時代を象徴するという点では先の人々にかなわない。

 おれは1966年の生まれで、同時代体験した伝説の人(語り継がれるであろう物語を持つ人)というと、ビートルズジョン・レノン、モハメッド・アリ、スティーブ・ジョブスオサマ・ビン・ラディンといったあたりが思い浮かぶ(おれがバブバブしていた時代を含めてだが)。いずれもジャンルを超えて社会に影響を与えた人達であり、最後は悲劇に倒れいている(人間は死すべき存在だから最後は必ず悲劇で終わるのだが、それにしても、である)。悲劇に倒れることは伝説の人となる条件のひとつなのだろう。

 現代で伝説になりうる人は誰なのだろうか。実際的な影響力の大きさといえば、Googleセルゲイ・ブリンFacebookザッカーバーグが候補に挙がるのかもしれないが、伝説というふうでもない。メッシはサッカーの分野では圧倒的能力を持つが、時代の象徴とまでは言えない。

 今の時代、伝説の人は出るのだろうか。1) 圧倒的業績をあげる、2) ジャンルを超えて影響を与える、3) 悲劇に倒れる。この三条件がおそらく伝説の人には必要で、今はたまたま小休止か、あるいは伝説の途中で凡人は気づいていないだけなのか、わからない。

相撲は国技か

 例によってのおれは、おれは、という話で申し訳ないのだが、相撲についておれの思うところを書く。例のやいのやいのの騒ぎはそろそろ収まったんだろうか。人の尻馬に乗ってやいのやいの言うのは嫌なので、今頃書く。

「日本の国技である相撲が〜」という言い方をよく聞く。その後はしばしば外国人力士への批判や日本人力士への期待(あるいは不甲斐なさ)へと話が続く。外国人力士にとっては時にゆるやかな差別にも感じられ、腹が立つ、あるいは悲しい言われ方だろう。

 相撲が日本的なのは間違いないが(八百長やごっつあん的な馴れ合いも含めて。モンゴル人力士の親睦会はそういう意味では日本の伝統に正しくしたがっているとも言える)、国技といえるかというと、疑問である。

 相撲が「国技」と呼ばれるようになったのは、明治の末に両国に「国技館」ができてからであるらしい(今の国技館は1985年の再建)。「国技館」と名乗ったことから、また日本的な特殊イメージがあることから、国技と呼ばれるようになったようだ。

 しかし、実体として相撲が国技とは思えない。神事に相撲が伴うことはあったようだし、村祭りの力比べとして相撲が行われることもあったろう。また、禁裏でも相撲を演じることはあったようだ(年寄の名前が顔に似合わず、高砂、伊勢ケ浜などと妙に雅なのはそのせいかもしれない)。しかし、国技と呼ぶほどに昔から技が浸透していたようでもないし、おれが小学校の頃には体育の授業で申し訳程度に相撲の時間があったが、本当に申し訳であった。もし国技と呼ぶべきものがあるとしたら、経験者の人数からして柔道や剣道のほうがまだ近いと思う。

 ともあれ、「国技」という言い方を外国人力士への悪口や溜飲下げに利用しているのを見ると、みっともないと思う。うがった見方をすれば、「強い外国人力士など見たくない」という意識が「日本の国技である相撲が〜」という言い方につながっているのではないか。