自家用車と籠

 おれは東京の目黒区に住んでいて、移動には主に電車か自転車を使っている。自動車を持っていたのはもはや四半世紀ほど前だ。

 「『移動』の未来」(エドワード・ヒュームズ著、染田屋茂訳、日経BP社)という本を読んだせいもあるのだが、今日、自転車で山手通りを走っていて、ふと思った。

「ひとりふたりの人間を運ぶために1〜2トンもの機械を石油で動かしている。これって異常なことなんじゃないか?」

 自家用車のことである。自家用車を否定するわけではないし、自家用車がなければ現実として暮らせない人も多いだろう(特に大都市圏以外では)。「好きで乗ってるんだ、何が悪い」と言われれば、別に悪くはない。

 ただ、素になって見てみると、随分と大げさなこと(体重40〜100kgくらいの人間を1人か2人運ぶのに、その10倍ものかたまりを使っているのだ)が、日本でも、世界の各所でも行われていると思う。

 落語のマクラなんかでよく「エー、テレビの時代劇なんかによく出てきますが、江戸時代は籠というものを使っておりまして、ひとりの人間を運ぶのにふたりがかり、時には『三枚』と言いまして、三人がかりで行く。考えてみればぜいたくなものですナ」なんぞと言う。

 五十年か百年も経って、今の自家用車が大量に行き交う道路風景を写真か何かで見た人は「考えてみればぜいたくなものですナ」と言うんじゃなかろうか。

「移動」の未来

「移動」の未来

おれについての三つの事実

 のっけから何だが、おれはまわりからウミウシ級の面倒くさがり、ダメ人間と思われているフシがある。面倒くさがりなのは事実だが、ダメ人間は違うと思うので、ここで白黒つけておきたい。

 きちんと整理しよう。まず:

 

● やればできるが、めったにやらない。

 

 ここはきちんと主張しておきたい。やればできるのである。むしろ、人並み以上にできる。ただ、やらないだけである。

 次:

 

● 負けず嫌いなので、なるべく勝負しない。

 

 負けると悔しい。人並み以上に悔しがる。だから、なるべく勝負は避けている。

 最後:

 

● 責任感が強いので、責任がともなうことは最初から避ける。

 

 失敗すると、人様に迷惑がかかるからね。基本的に人生逃げ腰であります。

茶室で◯談

 茶道には興味があるのだが、縁がない。抹茶が体に合わないのと、手先が派手に不器用なせいだ(不器用な人間を集めて、国宝・曜変天目茶碗を使った茶会を開いたらどうなるか、想像してみていただきたい)。

 しかし、茶室は好きで、見学する機会があると、いいなァ、と思う。

 茶室のよさは、もちろん、あのしつらえや陰翳のせいもあるのだが、ごく限られた空間の密室状態であることが大きい。日頃の社会的関係や外聞、世間の目を離れて、ひそひそと話すことができる(ようだ)。小さい頃に友達と押入れのなかでひそひそうひうひ話して、妙に隠微に楽しかった記憶があるが、茶室ではああいう体験の大人版を味わえるのだろう。

 例のふとした思いつきだが、茶室で、物理的にもごくごく近しい、口臭すら嗅げそうな薄暗い空間で、怪談や猥談をしたらどうだろうか。うひゃーうひゃひゃひゃもーたまらん助ケテクレ、と大変に良い時間を送れる気がするのだが。

 千利休の待庵でも借りてみるかな。

ベートーベンの脂

 全国推定800万人のベートーベン・ファンにはお詫び申し上げるが、おれはベートーベンが苦手だ。

 聴くと、二日酔いのときにラードぎとぎとの料理を前にしたような心持ちになる。脂っこくて、大仰で、おまけに生真面目だから、胃腸虚弱のおれはなかなか折り合える地点を見出せない。

 たとえば、交響曲第五番「運命」の有名な出だし。おれは聴くたびに、誇大妄想的な大袈裟さに笑い出したくなってしまう。

♪ ダダダダーン

「わはははははははは」

♪ ダダダダーン

 「わははははははははははは」

(中略)

♪ バラバ、ダッ、バッ、ダーーン!

「ぎゃははははははははははははは」

♪ ダ・ダ・ダ・ダーーーン!!

(悶死)

 実際にオーケストラが演奏するのを聴いたとき、ベートーベンは笑わなかったのだろうか。笑わなかったんだろうな。

 勝手な想像だが、ベートーベンは冗談が苦手だったんじゃないかと思う。また、「照れる」という感情もあまり覚えなかったんじゃなかろうか。

 人には、基調になるムードというか、底流というか、基本的な心持ちみたいなものがあるように思う。ある人は小唄的な心持ちを基調に生きているし、ある人は演歌、ある人はフォーク、ある人はロック、ある人はヒップホップを心持ちとして生きている。おれは、ベートーベンの大時代的な心根とははるかに遠い、小市民的なゲラゲラ気分のなかで生きているから、ベートーベンの曲にはなかなか共感できない。

 そういう基本的な心持ちはだんだんと変わっていくものだから、いずれはおれもベートーベンがしっくりくるようになるのかもしれないが……その日は遠そうだ。

 蛇足だが……と言っても、このブログ自体が蛇足の脱腸みたいなものだが、モンティ・パイソンでおれが好きなコントのひとつ。

 こういうからかいは相手がベートーベンだからできるのであって、モーツァルトでもドビュッシーでも難しい。やはりベートーベンは特別だ。

大向こうの掛け声

 相変わらずの思いつきだが、ご容赦願いたい。

 歌舞伎役者にはそれぞれ屋号があって、芝居のいい場面になると観客席から声がかかる。尾上菊五郎なら「音羽屋!」、市川團十郎海老蔵なら「成田屋!」、片岡仁左衛門なら「松嶋屋!」、松本幸四郎なら「高麗屋!」、中村吉右衛門なら「播磨屋!」である。いわゆる大向こうというやつで、いいところでいい声がかかると、キマッた! という空気になる。歌舞伎は大向こうも織り込んでできあがっているのだろう。

 ふと思ったのだが、役者にこんなふうに声をかけるとどうなるだろう。

「恥ずかしがり屋!」

 恥ずかしがるのだろうか。

「頑張り屋!」

 頑張り出すのだろうか。

「照れ屋!」

 照れるのだろうか。

「怖がり屋!」

「さみしがり屋!」

「締まり屋!」

「皮肉屋!」

 自分で書いていて、めちゃくちゃである。

 役者の住んでいる地名を呼ぶというのもある。先代の中村芝翫なら「神谷町!」(当代もだろうか)、尾上松緑なら「紀尾井町!」だ。あれは町名だからいいのであって、たとえば、

大田区!」

 では、大雑把にすぎるし、たとえ実際に住んでいても、

「たまプラーザ!」

東浦和!」

 などというのはどうもいけない気がする(たまプラーザや東浦和が悪いわけではありません)。

 将来の歌舞伎界も心配である。團十郎の家系がこのまま続くと(それ自体は結構なことだが)、やがては襲名披露で、

「ヨッ、五十三代目ッ!」

 などという掛け声がかかるのだろうか。

 あるいは、グローバル化がさらに進展すると、こんな大向こうの時代が来るかもしれない。

「I've been waiting for you!」(待ってました)

「大量的!」(たっぷりと)

「Mr. President!」(大統領)

イスラム帝国の誕生

 

 講談社学術文庫の「興亡の世界史」シリーズは何冊か読んでいる。統一した編集方針に合わせて専門家に書かせるというより、ある程度、各著者に内容を任せているようで、本によって面白さがかなり異なる(もちろん、読み手の興味や好みによるが)。

 これまで読んだなかで一番面白かったのは「モンゴル帝国と長いその後」(杉山正明著)だ。この「イスラーム帝国のジハード」はその次に面白い。

 アラブのいわゆる無明時代=多神教の部族社会から始まって、ムハンマド(570年頃 - 632年)の時代、正統カリフ時代(632年 - 661年)、ウマイヤ朝(661年 - 750年)、アッバース朝(750年 - 1258年)、その後の展開を、イスラームの教義/社会原理、現実の社会制度の両面から語っている。モンゴル帝国についてもそうだったが、イスラームの帝国についておれは内側をほとんど知らなかったから、興味深く読むことができた。また、戦術、戦闘、進撃の記述もあり、男の子的に血湧き肉躍った。

 それにしても、イスラーム国家が版図を広げた早さには驚く。ムハンマドが最初の啓示を受けたのが610年頃。マッカ(メッカ)で迫害され、マディーナ(メディナ)に移った(いわゆるヒジュラ、聖遷)のが622年。マッカを逆襲し、無血開城したのが630年。アラビア半島の統一が631年。そして、ウマイヤ朝が、東はパキスタンウズベキスタンから、中東、北アフリカを経て、西はスペインまでを支配下に収めたのが712年頃である。

 マッカは現在はイスラームの聖地だが、ムハンマド以前からカアバ神殿にアラブ人が巡礼で訪れる宗教都市だった。ムハンマドの時代の人口は約1万人だったそうだから、金毘羅様のある香川県琴平町(人口9千人)くらいか。巡礼の集まる金比羅様の町を征服してから80年ほどで大帝国ができあがったことになる。

 イスラーム国家の急速な支配の成功は、必ずしも強い信仰や、よく言われる「コーランか、剣か」という脅迫のゆえではなかったらしい。

 ウマイヤ朝はアラブ人支配だったそうだが、広い版図を人口の限られたアラブ人だけで治めるのには限界がある(これは後のモンゴル人の帝国も同じ)。一方で、各地域での宗教としてのイスラームへの改宗はゆっくりと進み、ある研究ではエジプトでもイランでも住民の半数がイスラームに改宗するのに1世紀以上かかっているという。

 大帝国の広がりは宗教だけが理由ではない。そこにはいろいろな要素がからみあっているのだが、詳しくは本書を読んでいただきたい。面白いです。

サムライ

 いきなりだが、おれの好きなサムライ。サタデイ・ナイト・ライブのジョン・ベルーシだ。

 自分をサムライに擬している人を見ると、なんだかなー、とおれはモヤモヤする。ある意味、ジョン・ベルーシ扮するsamuraiと大して変わらんのじゃないかと思う。

 映画や小説、お芝居、講談で描かれるカッコいいサムライは、実のところ、ほとんどいなかったろうと思う。率直に言えば、戦国時代の武士(武者と書くべきか)は領民支配と、戦闘における傷害・殺人を生業とする暴力関係者であるし、江戸時代に入れば、官僚か、家柄と虚栄にしがみつく奇食者、あるいはその両方である。鞍馬天狗も、志村喬演ずる島田勘兵衛も残念ながら実在しない。

 サッカーのワールドカップや、オリンピックの時期になるとサムライの株価が上がる。ああいうのはイメージの純化と拡大再生産とでもいうようなもので、実体がないからまあ、バブルである。

 もっとも、蛇も龍に憧れて、真似しているうちに角が生え、髭が生え、爪の生えた脚が生えてきて、そのうち本当に雲に昇るというのなら、それはそれで結構だけれども。