現代風の文字の見方と昔の文字の見方

 今日でも、もちろん、書を楽しむ人は大勢いるわけだが、日本の人口全体から見れば少数派だろう。ではなぜ書を楽しまない(楽しめない)人のほうが多いかというと、「何の字が書いてあるかわからない」「文字をパターン認識してしまう」という2つの理由が大きいんじゃないかと思う。

 前者の「何の字が書いてあるかわからない」についてはあとで書くとして、後者の「文字をパターン認識してしまう」は印刷文化の隆盛によるところが大きいと思う。今日のわれわれは、ガキの時分の絵本から始まって、目にする文字は圧倒的に印字されたものが多い(ここ十数年ほどの間に画面表示の文字も急激に増えた)。そうして、印刷、画面表示された文字を、われわれは「ひとつの文字」として全体で見てしまう。交通標識のような記号として単純に捉えてしまう。たとえば、「川」という文字なら、「縦に三本の線があって、左の線がちょっと曲がっているから、ああ、『かわ』だな」というふうに捉える。ほとんどそれ“だけ”が文字の認識の仕方だと思っている。

 手書きの文字というのはそうではなくて、「川」なら左上から始まって右下に終わるまで、軌跡として書かれている。そこには時間の経過がある。この軌跡、時間の経過の感覚をわしらは忘れかけているんではないかと思う。いわば、印刷、画面表示の文字のようなハンコ的な文字にばかり慣れてしまって、一連の流れ、手の動きを追わなくなっている。追うというやり方があることすら忘れている。

 ま、しかし、幸いなことに忘れていてもとりもどすことはできる。テレビなんかで書道家が文字を書いてみせることがあるが、ああいう動きというのはつい見入ってしまうし、また見ていて随分とおもしろい。そうして、紙に残された書というのは書いた人の動きやためらい、ブレ、時に失敗の記録であるから、それをなぞってみれば、擬似的に再現できる。アナログのレコードの溝をなぞると、録音された音楽を再生できるようなものだ。