昨日の犬の話の続き。
どうやら我々(とあえていっしょくたにさせていただく)は、人間と、人間以外の動物(獣)という区分けの他に、セミ人間という範疇も持っているらしい。
セミ人間。別にナントカ戦隊ナントカジャーに出てくるような怪人(一夏で死ぬのだろうか)のことではない。人間ではないが、かなり人間扱いする存在。擬似人間、半人間、ほぼ人間……どうもうまい呼び名を思いつかぬので、ここではセミ人間と呼ぶことにする。
頭の中にあるグループ分けを図にすると、こんなふうだ。
少なくとも日本社会では、多くの人にとって犬はセミ人間に入る。
南極観測隊のタロとジロが剥製になった、という話を聞いてちょっと違和感を覚えるのは、こんなふうに感じるからだろう。
並べてみる。
犬食の話がしばしば紛糾するのは、犬の置かれるグループが違うからだろう。人によってはセミ人間が食われるなんて、とんでもない話なのだ。そのうえ、「文化」「民族(意識)」の問題が絡んだりして、ややこしい。
普段は犬をセミ人間としている人だって、異国に行って「どうです? やってみます?」なんて犬料理に誘われたら、一時的に、
ということにしてしまうこともある。
イルカやクジラを捕る捕らないなんていう話も、
こういう位置づけの違いの問題が大いに絡んでいるようだ。反対派が時にヒステリックな行動に出るのは、彼ら(全員ではなかろうが)が「人倫」の問題のように感じているからだと思う(わたしは擁護派でも反対派でもない。どちらでもよい)。
ちょっと話が飛ぶが、日本の「なんとか動物ランド」調の動物番組もいささか罪があると思う。例えば、アライグマの行動を擬人化して捉えて*1、「可愛い、可愛い」とする。
その手の番組で夢を見た人がアライグマを飼ってみると、先方には先方の都合があるから、なつかない。噛みつく。暴れる。
ということに気づいて、ひどい人になると野に放してしまう。今、農作物への被害などが広がっているらしい。
まあ、人によって動物の位置づけはいろいろである。
同じ人だって、時と場合によって位置づけを変える。
位置づけが違う同士が、お互いの位置づけを押しつけ合っても、おそらくうまくはいかないだろう。お互いにやりすごせる方法を探すのが、せいぜいなのではないか。
*1:アライグマにはアライグマの物の捉え方があるだろう。擬人化するのはアライグマに対する敬意に欠けると思う。