ニヒリズム

 ニヒリズムというのも、なかなか広く、深いものがあるらしい。


 日本では、「虚無主義」と訳されているけれども、実際にはいろんな態度があるようだ。
 今までの秩序・価値は否定しちゃうもんねー、別の何かを頑張っちゃうもんねー、というのもあれば、とにかくガンガンぶっ壊しちゃうんだもんねー、というのもあるらしい。


 少なくとも、「虚無主義」の「虚」のところは、たぶん、訳語としてはやりすぎ。誤解を招く。


 訳語のせいか、日本でメジャーなニヒリズム的態度は、フッと口元を冷笑的に歪めながら、「生きることに大して意味なんてないね」、と、軽く髪をかき上げる、というものであろう。
 もっとも、これは「フッと口元を冷笑的に歪め」るからマシなのであって、貧相なご面相で「フゥと息切れで顔を歪めながら」では、単にシンドい人である。


 日本的な意味でのニヒリズムというのは便利なもので、この立場をとっていることにすれば、割と簡単に、深そうに見せかけられる。実際にはあんまり考えていなかったり、物事を感じていなかったりするだけでも。
 でもって、人から「そのへん、どうよ」とスルドく追及されそうになったら、「議論することに大して意味なんてないね」と、フッと口元を冷笑的に歪めればよいのだ。


 とりあえず、全てナシということにしておく、というのは、楽で、都合がいい。


 しかし、私は、ニヒリズムよりイヒリズム、と思っている。


「なんだ、そりゃ。単なるオヤジギャグじゃないか。昨日、あれだけオヤジギャグをクサしておきながら。懲役3年もしくは30万円以下の罰金」と非難する向きもあろう。


 8割方はオヤジギャグであると、私も認める(罰金は払わんけど。それに、警察が受け取ってくれない)。
 しかし、残り2割にはちょっと違ったことも含まれる。


 見せかけ的なニヒリズムも含めて、日本は割にニヒリズムと相性のいい風土のように思う。
 いや、もちろん、堀江社長や三木谷社長のような、アブラギッシュなジョーショーシコーの人々もいるけれども、そういうのは放っておく。そこらへんで牛肉でも食っていなさい。


 まず、日本にはびこっている仏教も、広い意味ではニヒリズムに含まれるのだそうだ。しかし、これについては、教理がちゃんとわかっていないと書けない。


 中学、高校の古文の知識くらいしかないが、平安時代の貴族は、憂き世とか言って、「ああ、無常であることよ。哀しい、哀しい」と泣いて暮らしていたらしい。
 これは、論理ではなく感覚だけれども、ニヒリズムに近い態度なのではないか。


 ところが、憂き世は、浮き世という捉え方に発展した。
 どうせ浮き草のように移り変わる世の中だ、という捉え方から、ま、これは一部だろうが、いっそ浮かれて暮らそじゃないか、という考え方まで生まれたらしい。


「いき」というものがあって、九鬼周造が「『いき』の構造」(岩波文庫ISBN:4003314611)の中で、「運命によって<諦め>を得た <媚態>が<意気地>の自由に生きるのが<いき>である」と、パシンと言ってのけている。


 もっとも、私が「『いき』の構造」を読んだのは、もう、10年ほども前のことだから、細かなリクツは覚えていない。ただ、上に書いた引用の部分だけは印象深く覚えている。
 リクツではなく、感覚的に理解できたからだろう。


 私にも諦めがある。それは、「逆上がりができません」という諦めばかりでなく、もうちょっと漠然としたものだ。
 しかし、じゃあ、「いき」になれるかといったら、意気地がまるっきりないうえに、媚態は、哀しいかな、気味悪がられる。私は色目を使って、女性にゲロを吐かせたくはない。


 そこで、すがるのがイヒリズムだ。イヒイヒ笑って暮らしていこう、という、まあ、安直なものである(繰り返すが、オヤジギャグでも罰金は払わん。懲役は構わない。どのみち、この世に生きていることが懲役なのだから――というのが、さっきも書いた安直なニヒリズム的態度だ)。


 南 伸坊の「笑う茶碗」(筑摩書房ISBN:4480814663)の帯にこう書いてある。


目標
へらへら
わらって
たのしく
くらす。


 わかるなあ、と思うのだ。


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