昨日、直球ど真ん中のシモネタを書いた。
言葉をひっくり返して、ついでに一文字を鏡文字にしたら、全然異質なものが出てきたので、驚き、呆れ、これはご報告せねば、と思ったのだ。
私はシモネタは嫌いではないが、うまくやるのは難しいと思っている。
まず、シモネタ自体を好まない人がいる。まあ、しかし、これは最初に断っておけばいいだろう。
いきなりどかんと発射して、不意打ちで笑かす、という手口は使いにくくなる。が、まあ、仕方がない。
厄介なのは、シモネタをしょっちゅうやっていると、割とすぐに飽きられてしまう点だ。特にあからさまなものは足が早い。
その点、「ウンコ、チッコ、バヒュ〜ン!」とそこらへんを駆け回って、倦むことを知らない小学生のガキどもには感心する。いっそ、羨ましくすらある。それだけでケタケタ笑っていられるのだから。
大人はいろんな刺激に慣れてしまっているせいか、シモネタに耐性ができてしまっているせいか、飽きやすい。オナラがブーという話も、タイミングによっては、たまに面白いが、毎日やられるとうんざりする。
まあ、シモネタをするのが大好きな人というのはいて、またそれを聞くのが好きな人というのもいる。それはそれで、一種のサブカルチャーとして、集まっていればよい。
ムチだって、首輪だって、タイツだって、勝手にやっていればいいのだ。ただし、好きな者同士で、だが。
シモネタの面白さというのは、たぶん、タブーを破る面白さだ。
しかつめらしい表情が求められる葬式で、足が痺れてアワアワとなっている人が可笑しくてしょうがなくなるときがある。あれと同じだと思う。
しかし、タブーも破ってばかりいると、タブーとしての締め付けが弱く感じられてくる。ゴムが伸びてしまうのだ。
シモネタは、駄洒落と並んで、オヤジギャグの二大アイテムである。
そして、両方とも、まわりはうんざりしている(うんざりされるからこそ、オヤジギャグなのだが)。ゴムは伸びきってしまっている。
シモネタの場合、それに「下品」、「野卑」、「足臭そう」という魔除けの札が貼られるものだから、オヤジはますます不利な状況へと追い込まれる。
まあ、そんなことは気にもかけずに、続けるところがオヤジギャグの恐るべきところだが。
後は、場の空気だろうか。怪談と同じで、少人数の秘密めいた雰囲気の中でやると、シモネタは効く。「ここだけの話ですけどね」というやつだ。ちょっと小声くらいがふさわしい。
隠微な空気で、ちょっとひねりのあるシモネタ。これがいい。
秘密結社をつくるといいかもしれない。
蝋燭のわずかな光の中、怪しげな入会の儀式をやるのだ。シモネタの。
たぶん、かなり効くと思う。