若い頃というのは一般に社会経験が少なく、おまけに血気盛んであるからして、理屈に走りがちなところがある。老けてくると、なんやかやと体験してくるし、心身にいろいろとガタがくるせいもあって、経験というもののありがたみがわかってくる。
いきなりなんだなんだという書き出しで申し訳ない。気まぐれで日本国憲法の前文を読んでいて、ちょっとひっかかった部分があるのだ。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。
最初の文は例のリンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治」の日本語訳である。それはまあよい。
ひっかかったのは二番目の文の「これは人類普遍の原理であり」というところだ。「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」ことは人類普遍の原理なのだろうか?
歴史についておれには聞きかじり、読みかじり程度の知識しかないが、いわゆる近代に入るまで、世界各地各方面は「国政は〜」というのとは違う原理で動いていたようだし、今このときだって、違う原理で動いている社会は多いはずだ。それを「人類普遍の原理」なぞと言い切るのは、少々傲慢ではないか? 近代以前の人々は人類ではなかったのか??
とまあ、血気盛んな若い頃なら考えたかもしれないが、今のおれはもっといい加減だし、関係各方面の事情も理解できる。つまりはこの序文が書かれた頃、「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」ことを「人類普遍の原理」ということにしておきたかったのであろう。虚構といえば虚構だし、約束事といえば約束事である。当時(1946年)、「そういうことにしておけ」ばうまくまわると考えた人がいて、今も「そういうことにしておけ」ばうまくまわると考える人は多いだろう。儒教の「孝悌は仁を為すの本」みたいなものでしょうか。
憲法の前文はこう書き換えるのが正しいとおれは思うのだ。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これをワシらは人類普遍の原理ということにしておくのであり、この憲法は、かかる原理に基くものである。