そしりについて

 我ながら皮肉やそしりを書くことが多い。皮肉やそしりも読んで面白ければ結構なのだが、相手をやっつけることで己の存在を誇示したり、溜飲を下げたりというだけでは、十代の反抗期のガキと変わらない。ちと反省している。ヨヨと涙にかき暮れている。いっそ死にたい。ああ、死んだ。

 と言った矢先からアレなのだが、インターネットでいわゆるネットウヨと呼ばれる人たちの書き込みを目にすることがある。自分の国を愛するのは結構だが、その愛情を確かめたいためか、他国・他国人へのそしりになることがある。読んでいてまあ、実に醜いものが多い。

 柳宗悦の「手仕事の日本」を読んでいたら、こういう文章があった。

 吾々はもっと日本を見直さねばなりません。それも具体的な形のあるものを通して、日本の姿を見守らなければなりません。そうしてこのことはやがて吾々に正しい自信を呼び醒ましてくれるでありましょう。ただ一つここで注意したいのは、吾々が固有のものを尊ぶということは、他の国のものを謗(そし)るとか侮るとかいう意味が伴ってはなりません。もし桜が梅を謗ったら愚かだと誰からもいわれるでしょう。国々はお互に固有のものを尊び合わねばなりません。それに興味深いことには、真に国民的な郷土的な性質を持つものは、お互に形こそ違え、その内側には一つに触れ合うもののあるのを感じます、この意味で真に民族的なものは、お互に近い兄弟だともいえるでありましょう。

 柳宗悦が書いているのは主に工芸品のことなのだが、広く人間の行動についても同じようなことが言えると思う。

 ネットウヨと呼ばれる人たちが他国・他国人をおとしめるやり方というのは、多くの場合が、他をひきずり下ろす/蹴落とすことで相対的に自分(たち)の位置を高めるという、まあ、安直なやり口であって、小学生が口げんかで相手の親をおとしめる「お前の母ちゃんデベソ」と大して変わらない。書いた本人はその瞬間に気持ちよくなるのかもしれないが(小人物のおれにはよくわかるぜ、その気持ち)、別に自分の絶対的な位置を高めるものではない。むしろ、自分の位置を相対的に高めようとして、自分から落っこちていくふうである。放っておけばいいのかもしれないが、自分のみっともなさに気がついていないのは気の毒でもある。やっぱり、パンツをはかずに街を歩いている人には注意してあげたほうがよいと思う。

 これはそしりではなくて、批判のつもりなのだけど。そしりと批判の何が違うかというと、言外に「ウヒヒヒヒ」が付いているかどうかである。

手仕事の日本 (岩波文庫)

手仕事の日本 (岩波文庫)