起承転結考

 起承転結というのは、元々、漢詩の構成法から来ているのだそうだ。


 起で始まって、承で続けて(あるいは広げて/エスカレートさせて)、転でやややっ、となって、結でオチをつける。


 起承転結の例としてよく出される、頼三陽の俗謡で言うと、


(起) 京の五条の糸屋の娘


(承) 姉は十六妹十四


(転) 諸国大名は弓矢で殺す


(結) 糸屋の娘は目で殺す


 だそうで、いいねえ、殺されてみたいものだ。



 起承転結は実によくできた構成で、四コマ漫画や文章の構成の典型としても語られる。


 なくても構わないように見えて、案外と重要な役目を果たしているのが、「承」だと思う。


 上の例で言うと、


(起) 京の五条の糸屋の娘


(転) 諸国大名は弓矢で殺す


(結) 糸屋の娘は目で殺す


 では、意味は通るが、つまらんのである。


 例えば、陸上競技三段跳びは、「ホップ→ステップ→ジャンプ→着地」だから見ていられるのであって、あれが「ホップ→ジャンプ→着地」だったらと想像してご覧なさいよ。随分とつまらないよ。承は、人間が感興を催すうえで、意外に大切だ。


 まあ、「ホップ→ステップ→着地」とか、「ホップ→ステップ→ジャンプしたまんま」とか、「ジャンプ→着地→ステップ→ホップ」というメチャクチャな競技も、一度だけなら見てみたい気もするが。


「承」は大切だが、何にするかは、割にどうでもいいように思う。少なくとも、「起」「転」「結」ほど、人は内容に気を止めない。


 例えば、


(起) 京の五条の糸屋の娘


(承) のれんの奥でひそひそ話


(転) 諸国大名は弓矢で殺す


(結) 糸屋の娘は目で殺す


 でもいいし、


(起) 京の五条の糸屋の娘


(承) おぼこ顔して清水詣で


(転) 諸国大名は弓矢で殺す


(結) 糸屋の娘は目で殺す


 でもかまわない。「承」はとりあえず「ある」ということが大事なのだ。


 これが、例えば、「結」を変えて、


(起) 京の五条の糸屋の娘


(承) 姉は十六妹十四


(転) 諸国大名は弓矢で殺す


(結) 糸屋の娘は刀で殺す


 では、どうも残虐になっていけない。「糸屋の娘は槍で殺す」はもっといけないし、「方天戟で殺す」となると、もはや中国の豪傑の世界である。


 起承転結は、人間の快感原則をうまい具合に捉えていると思う。この話、もうちょっと続けます(たぶん)。