本屋で諸星大二郎の「壺中天」が文庫になっているのを見つけて、ひさしぶりに読んだ。
- 作者: 諸星大二郎
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2007/01
- メディア: 文庫
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中国の怪異譚に材をとっている漫画(諸星大二郎のオリジナル・ストーリーもあると思う)。諸星大二郎ならではのグロテスクかつ不思議と居心地のよさのある世界で、楽しめた。
中に「三山図」という話がある。ストーリーは書かないが、最後はこんな言葉で終わる。
「そんな仙人の顔を想像しながら一人この小石を眺めるのが阮邦の晩年の楽しみだったそうである」
机の上に少し靄のかかった小石(なぜ靄がかかるかは内緒)を置き、阮邦が盃を片手に、何とも言えないいい表情をしている。
いいなあ、と思う。そういうふうに、ほわーっとしていられる境地に憧れる。
しかし、少なくとも今のわたしは、なかなかほわーっとしていられない。
小石を――あるいは庭でも絵でもいいが――眺めて、おそらく十分とはいられないのではないか、と思う。間がもたないのだ。
わたしだけでなく、今の時代のほとんどの人は、本当に何もしないで時間を過ごすなんて、なかなかできないんじゃなかろうか。
昨日、外を歩いていて、駐車していたミニバンの車内がふと目に入った。
運転席と助手席それぞれの後ろに小さなテレビモニターがついていた。後部座席の人がテレビやDVDなどを見るのだろう。ゲームもできるのかもしれない。
確かに、クルマの後部座席に座っていると、案外、間がもたないものだ。特に子どもが中学生以上になった家族だとそうだろう。
その間のもたなさを商機にして、クルマのメーカーがテレビモニターを座席につけたのだと思う。
立川談志がよく、ニュースやなんかでわーわー騒ぐのは、騒いでいないと間がもたないからだ、というようなことを言う。
最初、わたしはピンと来なかったが、近頃はそうかもしれない、と感じるようになった。
間がもたないからテレビをつける。テレビ局側は、視聴者側のそういう需要を何となくわかっているからニュースを大げさに取り上げ、コメンテーターなる謎の肩書き(訳すと、コメントする人、というだけである)を持つ人々にわーわー騒がせる。相撲は見ないけれども朝青龍にはいろいろ言いたいという人は多いだろう。
少々乱暴な言い方をすると、テレビの番組というのは間が埋まればいいのだから、画面の中で何か騒ぎが起きていて刺激を送り、視聴者の間がもてばそれで十分なのだとも思う。
あるいは、間がもたないからゲームをする。間がもたないから携帯でメールを打つ。
間がもたないからインターネットに書き込みをする。ブログを書き、何かを叩く。
自分に火の粉がかかるのは嫌だけれども、騒ぎには参加していたいのだと思う。そうでないと間がもたないから。もちろん、人にもよりますが。
昔の人が間をもたせられたのかどうかは知らないが、少なくとも今の時代は何もしないでいると間がもたない。耐えられない。
その、もたない間をもたせることを目指して、いろんな物やサービスが開発されているようにも思う。なぜなら、商売の基本は、お金と引き替えに、相手の足りないものを埋めてあげることだから。
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「今日の嘘八百」
嘘六百四 こんなことを書いているのも間がもたないからで、こんなところを読むのも間がもたないからである。