煙草の思い出

 煙草をやめて、かれこれ4、5年経つ。


 それまではヘビー・スモーカーで、20代の頃は生意気にピース・ライトを吸っていた。ライトとは言っても、腐ってもピース。ニコチンはかなり濃い。


「さすがにこれはいかんかなあ」と、もっと軽い煙草に変えたのだが、吸う本数が倍に増えただけだった。


 お金がかかるだけ、無駄であった。
 一度、一日に吸う箱の数から年間、煙草にいくら費やしているか計算してみた。30万円と出て、当時の1カ月分の給料と同じくらいだった。


 実にまあ、無駄なことに使っていたものである。


 煙草を吸わなくなった理由は簡単で、禁煙したからである。当たり前か。


 なぜ禁煙したかというと、それまでに禁煙という体験をしたことがなかったからで、「苦しい、苦しいと聞くが、どんなもんなんだべや」と軽い気持ちで始めた。


 いやー、苦しかったです。


 やめて3日くらいはずっと空中を歩いているようだった。
 不得要領の苦しさに見舞われ(表現に困る苦しさなのだ)、仕事が手につかなくなった。


 幻覚を見、幻聴を聴き、目の前を通る大名行列の後をついて回り、刃物をメチャメチャに振り回し、通行人に突然殴りかかり、手首を382箇所切ってから、「I can fly!」と叫んでマンションの5階から飛び降りた。


 というのはもちろん嘘だが、苦しかったのは本当である。


 煙草をやめると、いくつかいいことがある。


 健康方面についてはよくわからない。もしかしたら健康にいいのかもしれないが、わたしの場合は「焼け石に水」という表現があてはまると思う。


 一番いいのは、煙草を吸わないときの苦しさを味わわないで済むことで、これは実にもってラクである。


 煙草を吸っていた頃は、吸うと気持ちいいとか、頭がスッとするとか思っていたが、あれは誤解に近い。
 むしろ、吸わない苦しさから解放される、吸ってないときはイライラして頭が働かない、と考えたほうがよい。


 やめると、煙草というのは実にくだらないと思う。効果が薄い割には禁断症状の重い麻薬である。
 なぜあれを麻薬と呼ばないかというと、おそらく、商売方面で困る人がいるからだろう。ご承知の通り、政府というのは基本的にヤクザと同じことをして食べているから、つまりはシノギである。


 煙草を吸う人を、愛煙家と呼ぶことがある。
 愛は愛なんだろうが、たとえて言うなら、情の深い女と同じで、ひどい男とわかっちゃいても別れられないアノ人ト、といったところだ。まあ、それはそれでひとつの愛の形ではある。


 それから、まわりで煙草を吸われても気にならない、というのもある。これは最初から煙草を吸わない人にはないメリットだ。


 よく煙草の煙やにおいを蛇蝎のごとく嫌う人がいる。見ていると、蛇蝎のほうを「煙草のごとく」と言い出しそうな勢いだ。
 イヤでたまらないのだろうが、まあ、あまりうるさく言うと角が立つ。


 その点、以前にさんざっぱら吸っていると、やめてから煙やにおいが気にならない。


 あとは、煙草を吸っている人に優越感を持てる。


「あー、この人は煙草と離れられないんだなあ。可哀想だなあ。きっと奥さんもブスなのだろう」


 などと、内心、人を見下すことができる。


 いやね、イヤラしい根性だということはわかってますが。


 しかし、人を哀れみの目で見ることができる、というのは、実に楽しい。
 人を蹴落とす、引きずり下ろす、というのは、人間の本源的な喜びのひとつでないかと思う。
 それも、こっそり思うだけだから、一方的な勝利である。サイテーな人間である。


 あとはアレだ。折れた煙草の吸い殻でアナタの嘘がわかるのよ、なんてこともなくなる。
 浮気の好きな人にはオススメである。

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「今日の嘘八百」


嘘五百五十八 ゼウスは全知全能だが、その情報と能力の使い方がわからなかった。早い話が馬鹿である。