漠とした全体

「個人的には」の他にも、漠とした全体に対する遠慮、不安、恐れが感じられる言い回しがある。


 いろんな人のブログを読んでいると(残念ながら日本語のものしか読めない)、そういう言い回しによく出くわす。
「正直言って」、「ちょっと変ではないか」、「もっと言えば」、「私自身は」。


「私は○○と思う」でいいではないか、と思うのだが、つい全体に対する配慮から「私自身は○○と思う」という言い方をしてしまうのだろう。必ずしも意識しないで。


 ブログは世間に公開されているものだから、漠とした全体を気にして、言葉を丸めたり、弱めたり、あまり自分の意見が強く見え過ぎないようにしたりするのだと思う。


 いやね、ンなこと言ってるわたしだって、今日の日記で、「ちょっとわからない」だの、「心の傾きは強いようだ」だの、「重たい事例を持ち出してアレなのだが」だのと、言い回しを丸めてますが。なんしろ、漠とした全体はコワいッスから。


 飛躍するけれども、いじめ。あれは別に日本だけのものではないだろうが(アメリカの学校のひどい話も聞く)、日本型のいじめというのはあると思う。
 全体でひとりを無視する、あるいは辱める、というタイプだ。


 いじめる全体のほうでも、ひとりひとりは「本当はやりたくない」とか、「やってはいけないのだけど」とか、「可哀想だ」とか、思うらしい。
 しかし、自分が全体から外れると、トバッチリが自分のところに来かねない。そんなこんなで、消極的にでも全体の側についてしまう、と、そういう子供もいるようだ。


 和合というときれいに見えるけれども、しばしば裏腹に、外れることへの不安や恐れが隠れているように思う。


 あくまで霊感であって、実証的でないところが、わたしのイタいところなのだが。

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「今日の嘘八百」


嘘三百 いやー、逃げ腰です。


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