和をもって貴しとなす、というのが、古来、ニッポン人の道徳とされてきたそうなのだが、いい悪いはちょっとわからない。ケース・バイ・ケースではないか(便利な言葉である)。
ただ、全体のことを割と気にするとか、あまり波風を立てないようにするという、メンタリチーっつーんですか、心の傾きは強いようだ。日本で生まれ育った人には。
先日、ニュースを見ていたら、小さな息子をクルマにはねられて亡くしたという父親が出てきた。ドライバーが脇見運転をしていて、道路脇を歩いていたその子をはねたという。
現場は住宅街の中にある片側一車線の道路で、歩行者用に白線だけが引いてある。どこにでもありそうな道路だった。
インタビューに、父親は努めて落ち着いて答えようとしていた。
道路行政に対して、こんなことを言っていた。
「個人的には」こういう住宅街の道路は、制限速度を60km/hではなく、30km/hにしてほしい。
いや、重たい事例を持ち出してアレなのだが、そういうひどい目にあいながらも、「個人的には」という言葉を使うのか、と思った。
「個人的には」。
よく聞く言い回しだ。わたしだって、日常会話の中で使っているかもしれない。
この言葉、裏側には、遠慮とか、大げさに言うと全体に対する不安や恐れが隠れているように思う。
全体的な流れとか、集約しつつある意見もあるのだろうけれども、「個人的には」こう思う、と、そういう心の動きで使っているんじゃないか。
そして、そのさらに奥を探ると、全体の空気に逆らいすぎて、叩かれることを恐れる気持ちがあるように感じる。
例によって、わたしのあまりアテにならない霊感によるのだけれども。