「自虐」と表向き似たものに、「道化」がある。
しかし、ストレートな自虐と道化には、大きく違う部分がある。
ちょっとコムズカしい書き方になるけれども、道化は自虐に見せかけて、実は冷静だ。
自分のしょうもなさやダメな部分、変テコさを客観的に、突き放して捉えている。そうして、そのしょうもなさやダメな部分、変テコさを道具にして、人を笑わせる。
チャップリンの貧しげな格好やひょこひょこした動きがそうだし、由利徹の東北訛がそうだし、たこ八郎が公に見せる動き・しゃべりの全てがそうだし、コメディアン時代のエディ・マーフィーの黒人ネタがそうだ(あれ、白人がやったら殺されかねない)。
比較的最近だと、ヒロシの自虐ネタが典型的な道化である*1。
イギリスのコメディ集団、モンティ・パイソンのジョン・クリーズが、あるインタビューでこんなことを語っている。
悲劇は苦しむ人物に客が感情移入をする。喜劇は距離を置いて笑い飛ばす。アンリ・ベルクソンがこんなことを言っている。「喜劇に必要なのは同情心の一時的な忘却」、とね。喜劇では人物を突き放して見る。人物に愛情があってもね。
自分のことに自分で同情心を持つと自己憐憫(悲劇)になり、突き放して笑い飛ばすと道化(喜劇)になるのだ。
アメリカにユダヤ系のコメディアンが多いのは、子供の頃からの隠微に差別されているという意識(差別とは低い位置に落とされるということだ)が道化に転じるからだろうか。
*1:シロウトが自虐を下手に道化に転じようとして失敗すると、悲惨の度を増すので、注意が必要である。