電話だと、直接顔を合わせるより、キツい言い回しになりやすいようだ。
しかし、インターネット上よりははるかにおとなしい。
あくまでわたしの印象だが、
インターネット>手紙>電話>顔を合わせての会話
キツさの順番はそんなふうに思う。
何だろう、人格力とでもいうべきものがあるのかもしれない。
「人格力」といっても、人間の品格という意味での人格ではない。
喜怒哀楽、ひょっとこ、おかちめんこ、イケメン、美人、ゲジゲジ眉毛、松本清張、ツンツン鼻、蠱惑的笑み、オールバック、笑いながら怒る人、etc.、etc.、あるキャラクターを持った人がそこにいる、というそれだけのことだ。
しかし、その「そこにいる」という感覚が強いか弱いかで、キツさも違ってくるように思う。
何というかね、相手が目の前にいると、心遣いしたり、気弱になったりするのだ。
インターネット上の、匿名やハンドルネームを使った議論では、相手の存在を、生な感じでは捉えにくい。
攻撃欲ばかり刺激されて、まわりを蹴落としたくなるカンダタ化、あるいはカンダタを引きずり落としたくなる地獄の亡者化が起きるのだと思う。
蜘蛛の糸だけに、ネットワーク。芥川龍之介はあの作品で、現代のインターネットにおけるコミュニケーションを予言していたのである、というのは、全くのデタラメだ。
もっとも、ブログなどでも、相手の人となりが感じられ、それが不快なものでなければ、やわらかいコミュニケーションになるようだ。
まあ、顔を合わせるときに似て、議論が、正しさよりも、同調やすり寄り、迎合に流れるきらいもあるけれども。
2の「自分の書いたことの一部を否定されただけで、カッとなってしまう」というのも、相手の生な存在を感じにくいのが、理由のひとつのように思う。
おまけに、一呼吸おいて考える前に、感情に従ってわっと書いて送信してしまうし。
ま、しかし、だからといって、「皆さん、相手のことをまず考えましょう」などと学級会的優等生発言をしても、あまり効果はないのよね。
人は、どこかで人を恐れているようにも思うのだ、ひでき。
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「今日の嘘八百」
嘘七十一 人間五十年。定年までは六十年。