歌と踊りというのは相性がいいらしく、唄いながら踊る民謡は多いし、振り付けのある歌謡曲も多い。あるいは、歌(曲)を流して踊る場所、というのは、盆踊りからクラブまでいろいろある。
同じ表現活動であっても、踊りながら絵を描くというのはあまりないし(アクションペインティングというのはちょっと違うだろう。パフォーミング・アートにはあるかもしれないが、よく知らない)、唄いながら書をものする、のでは、ただの機嫌のいい書家である。
唄いながら文章を書く、という人はあまりいないと思う。
あくまで噂だが、志茂田景樹は口述筆記で、踊りながら小説を書く(喋る)らしい。オモシロ伝説の類かもしれないが、本当ならあまり目にしたくはない。
他の表現分野と比べて、とても近い関係にある歌と踊りだが、日常生活の中では割に離れたところにある。
例えば、鼻歌を唄ったり、口笛吹いたりしながら歩く人は不思議ではない。
しかし、踊りながら歩く人、というのは、少なくとも日常生活の中では異常だ。繁華街にそんな人が現れたら、おそらく、人波によってモーゼの出エジプトが実現するだろう。
自転車に乗りながら唄う人というのは、意外と多い。漕いでいるうちに高揚感が増すからかもしれない。
しかし、自転車に乗りながら踊る人はまず見ない。というか、非常に危ない。
唄いながら料理する、洗濯する、掃除する。
機嫌がよさそうで、結構、結構。家族としても、オッケーです、な状態だろう。
しかし、どうだろう。例えば、奥さんなり、お母さんなり(一応、アバラ骨方面の方々への配慮として――旦那さんなり、お父さんなりでも構いません)が突然、踊りながら掃除を始めたら、一家はいささか不安な空気に支配されるのではないか。
日常生活で、踊りは歌に大差をつけられている。
圧倒的優勢な立場にある歌だが、こちらも、♪ヤッホッホイ、と浮かれてばかりはいられない。
限界があるのだ。すなわち、普段の暮らしの中で、唄うのはもっぱら楽しいときか、機嫌がいいときに限られる。
悲しいとき、意外と人は唄わないものだ。
悲しい歌というのは世の中にたくさんある。
しかし、仕事で大失敗をやらかし、自分の無能さが悲しくなったからといって、「ドナドナ」を唄う人、というのは見たことがない。
あるいは、生きていれば怒ることも多い。
だが、子どもが言うことを聞かないからといって、いきなりニルヴァーナやデス・メタルを唄いだす人はいないのである。
なぜだ?
それはわからない。わからないが、別にどうでもいいことなので、これ以上、考えるのはやめておく。