遺憾

「この度のことについては、大変、遺憾に思います」


 なんていう言葉を、政治家や官僚、企業トップがよく口にする。
 どうもこう、物足りないというか、隔靴掻痒というか、釈然としないというか、誠意をあまり感じないのはなぜだろうか。


 広辞苑で「遺憾」を引くと、こう書いてある。


い-かんヰ‥思い通りにいかず心残りなこと。残念。気の毒。「―の意を表する」「―に思う」「―千万せんばん


「遺憾」という言葉は、政治家や官僚、企業トップが謝罪すべき状況で使うことも多い。


 広辞苑の字義通りだとすると、あまり謝罪の意味はなくて、「残念だ」、「私としてはそういうことはあってほしくなかった」と、一方的に自分のことを語っていることになる。「気の毒」というのも、他人事みたいだ。
 相手側への働きかけは弱く、そのせいで誠意をあまり感じないのかもしれない。


 例えば、自分の子どもがあんたん家の子どもにぶたれた、なんていうので、ねじこんでくる親がたまにいる。
「子どもの喧嘩に親が〜」というやつで、ちょっとどうかとも思うが、それはまあ、よい。


 そのとき、ねじこまれたほうが「この度のことについては、大変、遺憾に思います」と答えたら、どうなるだろう。つかみあいの喧嘩になるんじゃないか。
「遺憾」という言葉の薄っぺらさ、表面的な感じがよくわかる。


 まあ、エラい人には自分の体面とか、高い位置のキープとか、応急処置の面もあるのだろう。
 そういった「体面」、「高い位置」のせいで、「遺憾」はエラソーな言い草に感じられるのだと思う。「遺憾に思う」と聞くと、「な〜に言ってやがる」と反感を抱くのは、そのためだろう。


 誠意だの、反感だのと言っていても面白くないので、逆手にとって、利用する方法を考えてみよう。


 自分で自分が嫌になる、いわゆる「自己嫌悪」は、たいていの人にあると思う。あれはよくない。
 今、わたしは「自己嫌悪」という言葉を見ただけで、あれやこれやと思い出して、嫌になってしまったくらいだ。恥ノ多イ生涯ヲ送ッテ来マシタ。


 つい自己嫌悪に陥りそうになったとき、「自己遺憾」にスルリとすり替えてしまったらどうだろう。
「この度の自分の行いについては、大変、残念に思います」とまあ、自分で自分に遺憾の意を表明して、それでヨシとしてしまうのだ。


 案外、実用的かもしれない。お互い、どうにか、やり過ごして参りましょう。余命五十年。


 関係ないが、母親は、わたしを生んだ直後、人生に対してあからさまにやる気のない息子の姿を見て、即座に遺憾の意を表明したそうだ。
 わたしはわたしで、七歩歩いた後、右手で天を、左手で地を指し、つめかけた記者団に対して、「この度のことについては、大変、遺憾に思います」と答えたという。


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