中国の故事

 わたしは中国の故事が好きなのだが、なぜ好きなのかは自分でも、よくわからない。


 例えば、「杯盤狼藉」という故事を、「ことわざ・名言事典」(創元社編集部編、創元社)から引用する。


斉の国に淳于コンという男がいた。


 もう、この「○○の国に○○という人がいた」という時点で、「お、中国故事」と、軽くわくわくする(「コン」の字はJISにない)。


斉王のために一働きしたので、この男のための祝宴が開かれた。宴たけなわとなったころ、斉王がコンにどのくらい飲めば酔っぱらうのかときいた。すると、コンは「一升飲んで酔うこともあれば、一石飲んでも酔わないこともあります」といった。それは、いったいどういうことなのか、と斉王が再度質問した。彼はこう答えた。「たとえば酒席に裁判官がいたら、恐れ慎んで一升も飲まないうちに酔いましょう。いかめしい相手なら、正座をして飲みますから二升くらいで酔いましょうか。気が置けない友人となら五、六升で酔います。これが村の会合なんかで、男も女もいっしょになっての酒席となれば、うれしくなって一石の酒でも飲んでしまいます。まして夕暮れともなって酒宴もたけなわ、男も女もひざを寄せ合っての、杯盤狼藉ということになれば酔いは最高です」と、おもしろおかしくしゃべってきかせたあとの言葉をついで、「とはいえ、酒の上の楽しみが極まったあとは、悲しみがやってきます。何事も極まると国でさえ亡びます」といって、斉王をいさめたという。


 最後の、「とはいえ、酒の上の楽しみが極まったあとは〜」以降はいかにも教訓くさくて、蛇足という感じがする。


 かといって、「『杯盤狼藉ということになれば酔いは最高です』と、おもしろおかしくしゃべってきかせた」で終わってしまっては、物足りない。


 たぶん、中国故事にはフォーマットがあり、今書いたみたいに途中で切ってしまってはフォーマットを全うせず、隔靴掻痒に感じるのだろう(関係ないが、この「隔靴掻痒」という表現、痒くてたまらん感じがとてもよく出ていて、実に痒い)。


 この「杯盤狼藉」の故事でいえば、こういうフォーマットだ。


1. どこそこの国になになにという人がいた、と紹介



2. 偉い人が質問




3. 質問された人が機知や頓知、たとえ話、ヘリクツで見事な答をする



4. シメ(今の場合は、「何事も極まると国でさえ亡びます」という諫め」


 この手のパターンでは、もちろん、3の機知や頓知、たとえ話、ヘリクツがキモで、一番面白い部分なのだが、4のシメがないと座りが悪い。たとえ蛇足であっても、4がないと中国故事らしくならないのだ。


 逆に4の後に継ぎ足してもいけない。


彼はこう答えた。「たとえば酒席に裁判官がいたら、恐れ慎んで一升も飲まないうちに酔いましょう。いかめしい相手なら、正座をして飲みますから二升くらいで酔いましょうか。気が置けない友人となら五、六升で酔います。これが村の会合なんかで、男も女もいっしょになっての酒席となれば、うれしくなって一石の酒でも飲んでしまいます。まして夕暮れともなって酒宴もたけなわ、男も女もひざを寄せ合っての、杯盤狼藉ということになれば酔いは最高です」と、おもしろおかしくしゃべってきかせたあとの言葉をついで、「とはいえ、酒の上の楽しみが極まったあとは、悲しみがやってきます。何事も極まると国でさえ亡びます」といって、斉王をいさめた。斉王は「そんなことは訊いておらん」といきなり淳于コンの首をハネたという。


 これではやはり中国故事にならない。


 中国故事のいわば「説諭もの」は、機知や頓知、たとえ話、ヘリクツが面白いのだが、一方で、フォーマットをなぞる気持ちよさもあるようだ。


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