その日、わたくしは隠れて、初めてひとすじの紅をひいた。
美しい出だしである。
ただし、これが小説で、薄倖の少女が主人公であるならば、だが。
当然、少女は意地の悪い養母にこき使われていなければならない。
養母の実子がきれいなべべを着せてもらうのに対し、少女は擦り切れた木綿の着物をいつも着ている。
水仕事で手はひどいあかぎれとなり、髪はほつれている。
ある日、少女は恋をする。
相手は、落語に出てくる丁稚の定吉みたいな、のんきな小僧ではいけない。
近所に引っ越してきた洋行帰りの青年か、養母の不倫相手か何か知らないが、近いようで遠い存在でなければならない。
沼地に、ひそやかに花開いた水仙の花。
たまたま家に誰もいないとき、少女は養母の化粧台の前に座り、唇にそっと紅をひいてみるのである。胸は高鳴っている。
その日、わたくしは隠れて、初めてひとすじの紅をひいた。
ブンガクである。あるいは、宮尾登美子である。橋田壽賀子である。
しかし、これが38歳の馬鹿男の話となると、事情はガラリと変わる。
その日、わたくしは隠れて、初めてひとすじの紅をひいた。
――いや、冗談だ。思わずモドしてしまった方には、お詫び申し上げる。
私は生まれてこの方、化粧というものをしたことがない。
理由は簡単で、“惨”の一字に至ること、必定だからだ。
それに、私は、2年ほど前に浅草で、白夜書房の末井昭と130Rのホンコンが化粧したような、見事なオカマ二人組(しかも、青々とヒゲすら浮かんでいた)を見かけて以来、男が化粧することに対して、保守的になってもいる。
なので、自分が化粧する気はないのだが、一方で、あの作業自体については、常々興味を抱いている。
まず、化粧をするとき、その人の態度は左官なのか、画家なのか、映画の看板屋なのか、という問題がある。
肌にはいろいろと凹凸や細かな濃淡の違い(こういう書き方を婉曲表現という)があり、それを均すように、あるいは埋めるように、隠すように塗っていく場合、これは左官であろう。
一方で、土台を誇張する、あるいは創作的態度で描いていくなら、画家といえる。
さらには、誰かを引き寄せるために描くならば、これは映画の看板屋だ。
たとえば、フィギュアスケートやシンクロナイズド・スイミングの選手は近くで見ると、極端に濃いメイクをしている。あれは、観客席から顔立ちがはっきり見えるようにするためだそうで、発想としては看板屋だ。
また、化粧するとき、どのようにして全体のバランスをとっていくのか、ということも知りたい。
ありがちなコントに、床屋が客の右を切りすぎたので、今度は左を切ったらそっちが切りすぎになり、今度は右を切りすぎて……最後に客が丸坊主になる、なんていうのがある。
あれと同じで、左右上下のバランスを取ろうとするうちに、バランス自体が目的になってしまい、客観的な出来が忘れられていく、なんてことはないのか。
つまり、細部にこだわるあまり、全体としては、イチゴのショートケーキか白壁に赤ペンキと化してしまうのだ。
これは、化粧に限らず、何かを作る、仕上げる、という作業につきまとう問題のようにも思う。
そうして、もうひとつ興味あるのが、「本当の自分」――私はこの言い回しを非常な疑惑のマナザシで見ているのだが――とやらいうものとの関係である。
若い女性を中心に「本当の自分」とかいうものを追い求めるのが、流行っているらしい。当然、「本当の自分」は肯定的に捉えられている。
化粧した顔と「本当の自分」の関係をどう考えるのか? 化粧して、「自分探し」に出かける(そして、たいてい迷子になる)というのは、筋としてどうなのか?
なお、付き合っている女性の、化粧を落とした顔を初めて見たとき、「騙された!」と思う男性は多い。
化粧、懸想、化生、消そう。深いね。なんたって、化けて粧(よそお)うだから。