正論の男

 「三つ子の魂百まで」というが、人間、確かにガキの頃から変わらない部分がある。
 私の場合は、小さい時分から正論を唱えてきた。今でも、唱えているつもりだ。


 もっとも、たいていの人が、自分の考えることを正論だと思うものだが。
「もしかしたら間違っているかも」と疑ってかかることはあるかもしれないが、「おれが主張することはいつも100%間違っている」と断言する人はほとんどいない。
 だいたい、主張が100%間違っているなら、「おれが主張することはいつも100%間違っている」という主張自体が間違っていることになり、わけのわからないことになってしまう。


 今でも覚えているのだが(←こういうのは余計なフレーズですね。覚えていなければ書けないだろうから←こういう文章も余計だが←そもそも、この日記全体が余計だが←あ、おれが余計なのか)、小学校の音楽のテストでこんなことがあった。


 小学1年生で、音符のドレミファを習う頃だ。
 テスト用紙に簡単な音符が書いてあり、それぞれの音符の下に○があった。


 あえて再現するなら、こんなふうだ。


         ♪
 ♪     ♪   ♪
   ♪         ♪
     ♪


 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○


 音符のところには、五線譜が引いてあったと想像していただきたい。


 設問には、「○にドレミをかきなさい」と書いてあった。
 私は、○に「ドレミドレミド」と順番に書いた。
 ペケがつけられた。


 これ、今でも、私は正しかったと思っている。「○にドレミをかきなさい」という指示に、素直に従っただけだ。
 まあ、もしかしたら、先生はひそかに受けてくれたかもしれないが。それだけが、救いだ。


 幼稚園で授業参観があった。
 前日に、保母さんが「お父さんは何のお仕事をしているのか訊いてきてください」と組のガキどもに言った。たぶん、親の心をつかもうという、コソクな手だったのだろう。


 私の父親は電力会社に勤めていて、その頃はダムか発電所の建設に従事していたのだと思う。
 家で「お父さんは何の仕事をしているの?」とプリティなボーイ(当時)は訊ねた。
 父親は酔っぱらっていたのかもしれない。「山で穴を掘っている」とテキトーに答えた(ここらへんのテキトーさ、血は争えぬものだと思う)。


 翌日の授業参観。
「ハイ、稲本君のお父さんは何のお仕事をしていますか?」
「山で穴を掘っています!」
 なぜか、満場、大受けに受けた。
 絶対に私は間違っていない。父の言うがままに答えたのだ。それに、山で穴を掘って、何が悪いのか。


 まあ、受けたからいいけど。


 当時、よく時代劇を見ていた。
 時代劇ではたいてい、最後に大立ち回りがあり、悪役側の手下どもが主人公によってバンバン斬られる。


 私は、あの人達は本当に斬られているのだと思って、見ていた。
「テレビって、大変だなあ。番組をつくるたびに、たくさんの人が死ぬのだ」と考えた。
 そうして、「なぜこの人達は殺されることを承知するのだろう?」と、まあ、当時は「承知」という言葉は知らなかったろうが、そんな疑問を抱いた。


 しばらく、考えて、こんな結論に達した。


「貧乏だからだ」


 つまり、殺される代わり、残された家族にテレビ局からお金が渡される。自分を犠牲にして、家族の生活を楽にする。そういう偉い人達なのだと考えた。


 馬鹿だったのか、賢かったのか、よくわからない。しかし、これまた、考えの流れ自体はさして間違っていなかった、と、今でも思っている。


 まあ、一方で、どうやらだいぶ抜けている、ということも判明したけれども。


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