自著を語る

 宣伝を兼ねて、というか、もろ宣伝のために、ひさびさに拙著「当面の敵」(ISBN:4794213794)について書く。


 この本は、この日記の、昨年まで4年分の中から、特にくだらないものを選んだものだ。
 1年につきだいたい十数本だから、かなりの濃度である。何の濃度なのかは、さっぱりわからないが。牛乳だったら、お腹をこわすかもしれない。


 で、まあ、この日記を読んでいただいている方にはわかるだろうが、「日記」と言いながら、その日に起きたことやしたことはほとんど書いていない。
 出たとこ勝負で、テキトーに書き飛ばしている。何について書くかは、書き始めてから考えることが多い。
 言ってみれば、方向音痴の伝書鳩。勝手なところへ飛んでいって、しかも帰ってこられないのだ。おまけに、脳味噌は鳩ポッポ。嗚呼、悲しい。


 問題はここにある。
 つまり、何についての本なのやら、書いている本人にも、出版社にも、書店の人にも、読者にも、皆目わからないのだ。


 そのせいで、書店ではいろんなコーナーに置いてあるようだ。
 サブカルチャー、語学、エッセイの3つのコーナーが多い。


 サブカルチャーのところにある、というのは、ちょっと不思議な気もする。サブではあってもカルチャー(文化)というからには、本来、複数の人が携わっていなければいけないだろう。
 しかし、私は天上天下唯我独馬鹿(てんじょうてんげただわれひとりばか)。言ってみれば、ひとりサブカルチャーである。


 もしかしたら、ネット上に書いてきた、という理由で、サブカルチャーに入っているのかもしれない。
 だとしたら、インターネットはこれだけ広がっても、まだサブのポジションにしかないのだ。少なくとも、一部の書店の人々にとっては。


 と、ここまで書いてから、「ム。まさか、サブいカルチャー、という意味ではなかろうな」と疑惑のマナザシになった。そうだ、そうだ。きっとそうに違いない。チキショー。


 語学のコーナーというのは、さらに不思議だ。これは全く考えていなかった。
 帯に「思わず力がぬける日本語」と書いてあるからかもしれない。


 まあ、言葉をいろいろいじって遊ぶ、という文章が、多めに入ってはいる。
 しかし、語学について学んだり、考えたりできる本では、断じて、ない。それは自信を持って、言える。ある書店で、国語辞典の隣に置いてあるのを見たときには、クラクラ来た。


 ベストセラーの「問題な日本語」の隣に置いてあることも多い。背表紙もどことなく似ている。
「当面の敵」というタワケたタイトルの隣に、「問題な日本語」。「はあ、どうも、スンマセン」という気になる。問題ですよねえ、確かにねえ、こんなものが世に出る状況というのは。
 でも、こんなことしか書けないのれす。っていうか、なにげにとんでもありません、これってどうよ、って思うけど、わたし的にはOKです、みたいな。


 エッセイのコーナーというのは、なにしろ、エッセイという入れ物自体が大きいから、無難な線なのだろう。


 ただ、問題は私の名前だ。「稲本喜則=いなもと・よしのり」。
 五十音順に並べてあると、左に来るのは、なんと、五木寛之なのだ。「大河の一滴」の隣に「当面の敵」。なにか、非常に間違っている気がする。韻、踏んじゃってるし。


 エッセイという入れ物をさらに広げて、文芸、となると、さらにいけない。今度は右に井上靖が来るのだ。
 左に「大河の一滴」、右に「しろばんば」。これはもう、肩身が狭い。紅白歌合戦の審査員席に間違って座らされた、江頭2:50のような心持ちになる。


 左にいとうせいこうが来てくれれば、実力はもちろん段違い平行棒だけれども、いくらかは救われる。いとうせいこうさんには、早く新刊本を出していただきたい、と心から願っている。


 というわけで、宣伝でした。私なら、出版社から八掛けで購入できますので、ご入り用の際は、お申し付けください。ただし、送料や手数などがありますので、まとまった数の注文に限らせていただきます。結婚式の引き出物などに、いかがでしょうか。


 そうそう、中味の出来ですが、もうね、すーごく面白い。腹抱えて笑う。私なんざ、毎日、読んでゲラゲラ笑っている。あー、可笑しい。あー、楽しい。あはははは。いやー、参った、参った。はああ、と、ポッポッポ。


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