馬鹿黴菌

 やや大振りの封筒には、「普通の封筒がなく大ゲサですみません」と書き添えてあった。


 震える手で封書を開け、手紙を読むと、思わぬ励ましの言葉が記されていた。非常に勇気づけられ、何度も読み返した。


 しかし、書きたいのは、そんな私個人の事情についてではない。手紙の中に、こんな一文があったのだ。


「いやあ、生き延びている馬鹿黴菌への再会は実に嬉しいものです。」


 凄え。と思った。


 ちょっと説明がいるだろう。


 「馬鹿」という言葉は、一般には否定的に捉えられることが多い。


 で、否定的に捉えた場合だが、この文の直前に、山下さんは、「断絶」という文章に大笑いした、というようなことを書いていらっしゃった。


・「断絶」


 とっさに出典が出てこないのだが、山下さんの昔のエッセイにも、喫茶店における気恥ずかしい、ファンシーなメニューについて記したものがあったと記憶している。
 そういう、昔から今に至るまで存在し続けている安物ファンシー感覚を指して、「生き延びている馬鹿黴菌」と呼んでいる、とも考えられる。


 しかし、私はそうではないと判断した。なぜなら、安物ファンシー感覚は生き延びているどころか、現在では蔓延しているからだ。WHOは、なぜかこの汚染を放置しており、これは実は大変な問題だと思うのだが、今は置いておく。


 では、馬鹿を肯定的に捉えるとどうなるか。


「馬鹿って、肯定できるの?」と思う人もいるかもしれないが、もちろん、できる。たとえば、「馬鹿だねえ、あいつは」とゲラゲラ笑いながら誰かについて語るシーンを想像してみていただきたい。
 馬鹿には二種類いるのだ。素晴らしい馬鹿と、迷惑な馬鹿と。


 話は戻るが、本の前書きと、送った本に付した反省文に、私は山下フレーズをパクったことについての言い訳(卑怯者ならではの行動だ)と謝罪を書いた。


 山下さんは、自らの編み出したフレーズを「馬鹿黴菌」と呼び、「再会は実に嬉しいものです。」と書くことで、「馬鹿なフレーズは伝染するものだ。誰かが再び書くことで、生き延びていく。だから、パクったことは気にしなくてもよい」と、私の抱いているヤマシサをほぐしてくれた、と、そういうことだろう。


 うーん、私の説明がまどろっこしくて、わかりにくいか。
 わかりにくい人のために、野暮を承知で言葉を補うと、こうなる。


「いやあ、(稲本の本の中で)生き延びている馬鹿黴菌への再会(=自分の馬鹿フレーズを目にできること)は実に嬉しいものです。」


 無礼者に対するお心遣いに、ただただ、コウベを垂れるばかりである。
 これを読んでいる若者のミナサマよ。私はもはや手遅れになってしまったが、できれば、山下さんのような大きく、豊穣で、格好いい人を目指してください。
 まずは、ピアノの最低音から最高音まで、0.3秒で駆け抜けられること。これが基本です。


 さらに、これはおそらく、ご本人の意図とは違うだろうが、勝手読み(ああ、これも山下フレーズだ)、というものもできる。誤読による拡大解釈というやつだ。


 いつ始まったものなのか、私にはわからないが、日本には馬鹿エッセイの系譜というものがある。馬鹿の火が馬鹿の祠の中でひそかに灯っており、馬鹿を解する人々の間で綿々と受け継がれているのだ。
 山下さんに「生き延びている馬鹿黴菌への再会」と書いていただいたことで、私は自分もその末端につながることができたような気がした。もちろん、末席の、そのもひとつ後ろの、土間の端を這い回っている程度だが。


 もう一度、記す。


「いやあ、生き延びている馬鹿黴菌への再会は実に嬉しいものです。」


 これ、ちょっとやそっとで出てくる文ではないですよ。


 私がここまでだらだらと書いてきたことを、山下さんはたった一文に封じ込めてしまった。


 まるで、剣の達人が目にも止まらぬ居合い抜きで立ち木を斬るのを、眼前にした気分だ。


 立ち木はきっかり三秒間止まった後、上半分が、直立したまま、ゆっくりと落ちていった。


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