Googleで「正しい日本語」と検索したら、42,500件も引っかかった。大漁である。
それぞれのページが、「正しい日本語」というものについてどういうスタンスを取っているか、最初の30件を分類してみた。
ただし、掲示板などの複数の意見が述べられているもの、スタンスが特に読みとれないもの、本の紹介は外した。
あくまで私にはこう読めた、という大ざっぱなものだ。
1. とにかく「正しい日本語」というものがある 16件
2. ビジネスの場での「正しい日本語」について記す 5件
3. 「正しい日本語」がある・ないについて中立的、あるいは迷っている 4件
4. 「正しい日本語」という概念について否定的 3件
5. 「正しい」かどうかはともかく、わかりやすさに重点を置く 1件
6. 新聞社の校閲的スタンス 1件
6は、「用語・言い回し」の統一についてだから、あるいは「正しい日本語」とは別の話かもしれない。
また、1〜3〜4については、グラデーションであり、実際はこうきっぱりと分けられるわけではない。意識しないうちに、いくらかは私の恣意的な見方も混じっていると思う。
ともあれ、「正しい日本語」というものが存在すると信じてかかっている人が、多い。
では、「正しい日本語」なるものは、本当に存在するのだろうか。
私自身は、まず、誰が何をもって「正しい」とするのかということを考えるべきだろう、と思う。
たとえば、中央政府には、「正しい日本語」を決めたがる傾向がある。なぜなら、国内で言葉がスムーズに流通しなくなったらムダが出るからだ。お金が流通しなくなったら困るのと同じである(のか?)。
あるいは、政府というものは秩序を求める。当然だ。それが彼ら・彼女らの仕事なのだから。なので、「言葉の乱れ」なるものが時に問題視される。「秩序の乱れ」のように感じられるからだろう。
そうして、標準語(共通語)というものがつくられる。
私は、標準語(共通語)があるのはいいことだと思う。準拠できる何かがあるのは別に構わない。
ただ、それが「必ず準拠しなさい」となったり、問答無用で「正しい」とされたりすると、「そりゃ、違うだろ」と思う。
強制したり、問答無用で「正しい」としたりするのは、政府よりむしろ、市井の人々のほうだ。「若者の言葉の乱れ」を叩くのは、その手の人々である。
私自身は、別に乱れりゃいいじゃん、と思う。なぜなら、言葉が乱れなければ、いまだに「ありをりはべりいまそがり、あはれ、あはれ、春はあけぼのまたKO、やうやう白くなりゆく山際淳司」などと言っていなければならないからだ。
方言による、独特のニュアンスの表現というものも生まれなかったろう。
まあ、「乱れる」というと、まるで別のところに正常なものがあるかのようなので、正しくは「変化する」というべきだろう。「言葉の乱れ」ではなくて、「言葉の変化」、である。
もちろん、言葉遣い、言い回しについての好き嫌いというのはある。
困るのは「嫌い」ということと、「間違っている」ということを混同する人が多いことだ。
たとえば、イカの塩辛味のソフトクリームが登場したとして、それを「嫌いだ」というのは勝手だが、「間違っている」とするのはおかしいだろう。
若者の言葉遣いが気にくわなければ、ガンガン叩けばよい。私にも、嫌いな言い回しはたくさんある。「カキコ」とか、「〜か、と。」とか、「ほーむぺーじ」とか、このバカタレがっ!!
言葉遣いを叩くのは、各人の勝手だ。しかし、「正しい」という言葉を使うなら、「政府(orナンタラ委員会とか)が正しいと言っている言葉遣い」、「私が正しいと決めた言葉遣い」ということは意識してほしい。
そうじゃないと、伝染して、問答無用(無批判)に「正しい/間違っている」と言い出すやつが増えかねないからだ。
まあ、結局は、各人、勝手にやればよい、と思うのだ。そのうち、勝手に渦巻いて、何かになっていく。
ただし、「嫌いだ」、「私は美しく感じない」を「間違っている。ここにこれこれこういうふうに正しい表現がある」にすり替えるのは、何かこう、オカミのご威光を笠に着る水戸黄門体質とでもいうべきもので、気にくわない。嫌いだ。