一を聞いて十はわからない

 たとえば、アメリカを旅行して、たまたま知り合ったおばさんの家に泊めてもらったとする。おばさんは何くれとなく面倒みてくれた。そうすると、こんなふうに考えがちだ。「アメリカ人は親切だ」。

 あるいは逆に、アメリカを旅行して突然暴力をふるわれ、非常におそろしい体験をしたとする。そうすると、こんなふうに考えがちだ。「アメリカ人は怖い」。

 もちろん、どちらも体験としてあり得る。しかし、どちらの「アメリカ人は〜」という結論も疑わしい。

 別にアメリカでなくとも、中国であろうと、ニジェールであろうと、ボリビアであろうと、グリーンランドであろうと同じである。わしらはたまたま出会った人の印象を、その土地やそこに住む人々の性質と勘違いしてしまいがちだ。

 おそらく、こういう大雑把な三段論法のせいなのだろう。

あるおばさんが親切だった。

そのおばさんはアメリカ人だ。

アメリカ人は親切だ。

 間違いである。いくらか実際に近づけるとこうなるだろう。

あるおばさんが親切だった。

そのおばさんはアメリカ人3億2千万人のうちのひとりだ。

アメリカ人3億2千万人のうちのひとりは少なくとも親切だ。

 もちろん、こんな考え方をわしらは普通、しない。しかし、統計学だの確率論だのを持ち出さなくとも、3億2千万分の一を全体に押し広げるのはあまりに乱暴であることはわかるだろう。

 わしらはたいてい、主観を客観に広げてしまう悪い癖を持っているのだと思う。ギャンブルに人が手を染めてしまうのも、あるいは宝くじで自分に3億円が当たると考えてしまうのも、この主観を客観ととりちがえてしまう悪い癖のせいなんだろう。

 一を聞いて十を知る、というが、本当にそういう芸当ができるのは豊富な、自分でも把握しきれないくらいの豊富な知識を内にしまい、しかも直感に非常に優れたほんの一握りの人間だけだと思う(おれを含む。うそ)。

 凡人は、一を聞いて十を知る、その最初の一すら間違っていたりするのだ。そういうものなのだ。

一丸

「一丸となって」とか、「総力を挙げて」などという表現を好む人がいる。

 先日、「官民一丸となって」というセリフを見かけて、怖じ気をふるった。ヤだね! ゴメンコームルヨ! 官なんかと一緒になりたくないし、一緒にやったら、それは癒着というものである。官は黙って(別にワメきながらでもいいが)自分の仕事をしてもらえば結構だし、できることなら、民の邪魔になることをしないでいただきたいと思う。

 おれは集団行動が昔から苦手なせいか、一丸とか総力という言葉が嫌いだ。気モチ悪イと思う。一億総ナントカ、という表現も嫌いだ。おれはおれで勝手にやるから、おまえらもめいめい勝手にやってくれ、と思う。

 まあ、「一丸となって」「総力を挙げて」などと簡単に言う人は大して物を考えずに、勢いをつけて喜んでいるだけなんだろうけど。

 全員責任という考え方も嫌いだ。全員で責任を持つということは、ひとりあたり大して責任を持たないということではなかろうか?

マンション名の日本語訳

 周知の通り、ご一新の文明開化以来、我が国における洋物崇拝には非常なものがある。一方で、それに対する反作用としてのニッポン・バンザイ論もはびこっていて、鏡に自分の顔を映してニヤニヤしているような姿をそこらじゅうで目にできる。もっとも洋物崇拝と自文化バンザイ論というのはおそらく我が国だけのことではなく、欧米の文明・文化にヤラレた感のある社会ではどこでも見られるものだろう。

 どういう文化的思考経路によるのか不明だけれども、我が国の洋物崇拝の極北はマンション名である。試しに、「マンション 販売開始」で最近のマンション名を検索してみたら、あっという間にこんなのが出てきた。

 

リビオ東中野ヒルトップ

クレアホームズ朝霞本町

プラウドタワー東池袋ステーションアリーナ

パークタワー勝どきミッド/サウス

ミオカステーロ東川口

パークコート渋谷 ザ・タワー

FUJISAWA THE TOWER

 

 ひとつめのリビオは英語だと人の名前だそうである。日本語に訳すなら「リビオさん東中野 丘の上」といったところか。ふたつめのクレアも女性の名前。「クレアの家々 朝霞本町」だが、おそらくリビオもクレアもブランド名なのだろう。知らんけど。

 三番目「プラウドタワー東池袋ステーションアリーナ」が凄い。「誇りの塔 東池袋 駅の闘技場」である。状況、というか、事の成り行きがまったくわからない。

 四番目「パークタワー勝どきミッド/サウス」は「大庭園の塔 勝どき 真ん中/南」。あるいは「駐車場の塔 勝どき 真ん中/南」。おれには今いち何を言いたいのかわからない。

 五番目「ミオカステーロ東川口」はイタリア語だ。「Mio Castello」。「私の城 東川口」である。何LDKなのか知らないが、ずいぶんと小さなお城である。

 六番目「パークコート渋谷 ザ・タワー」もパークもの。「大庭園宮廷 渋谷 これぞ塔」。あるいは、「駐車場法廷 渋谷 これぞ塔」。誇大妄想狂か、軽犯罪の裁判か。

 七番目「FUJISAWA THE TOWER」は欧文表記で攻めてきた。「FUJISAWA これぞ塔」である。常々、英語での「the」の使い方は気をつけたほうがいいとおれは思っているが、FUJISAWAの物件はまんまと引っかかったようだ。

 

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これぞ塔。

Hiro-o / CC BY-SA (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/)

 

 かく言うおれもマンション暮らしである。名前は秘密だが、宮殿に住んでいる。

フナムシのいのち

 動物の生き死にについて「同じいのち」(なぜかひらがなで書かれる)と言い出す人がよくいて、読んだり聞いたりするたびにおれは困ってしまう。

 犬猫のようにペットとして飼われている、というか、人によっては家族のような存在になる動物なら、まあ、気持ちがわからぬでもない。しかし、牛、豚、鶏となるとどうなのか、あるいはライオン、シマウマ、ヌー、オポッサムとなると「(人間と)同じいのち」と考えていいのか、怪しく思えてくる。まあ、たとえ同じいのちだったとしても、食うの食われるのという世界で生きている動物について、人間と同じように考えていいのか、すこぶる疑問ではある。

 あるいは、シャケはイワシはウニはどうなのか。海岸なんかに大量にいるフナムシも同じいのちなのだろうか。おれは温かい心が足りないのか、愛が足りないのか、とてもそんなふうには感じられない。

 おそらく同じいのち派の人々はこんなふうに考えているのだろう。人間もフナムシもいのちがあることは同じ → 同じいのち → 人間のいのちと同じようにフナムシのいのちも扱われないとおかしい。2番目と3番目の間にはだいぶんの飛躍がある。論理の展開をちょっと変えると、3番目は「フナムシのいのちと同じように人間のいのちも扱ってよい」となってしまう。

 人間もフナムシも同じいのちなのです、となると、それでは稲は同じいのちではないのか、ニンジン、ダイコン、カリフラワーはどうなのだ、と迷宮に入ってしまう。同じいのち云々というのは実は恣意的な物の見方ではないかと思うのだ。

 何かで、命なんてものは本当はないのだ、生きているという状態があるだけなのだ、と読んだことがあって、感心した。しかし一方で、言葉レベルの話では確かにそうかもしれれないが、そっち方面にがんがん進んでいくと、人間同士であっても殺伐とした関係になりかねず、何事もリクツはほどほどがよいように思う。

 こういうのはファンタジーの問題であって、おれもまた別のファンタジーの中にいるのだろう。ファンタジーと別のファンタジーが時たま真正面からぶつかってしまうことがあり、自分たちのファンタジーを押しつけるとなかなかうまくいかないことが多い。

タイフーン期

 表現の分野でも科学技術の分野でも、短期間に物事が非常に進んで、面白い出来事が次々に起きる時期というのがある。仮にタイフーン期とここでは読んでおこう。

 たとえば、ロックなら1960年代。パーソナルコンピュータなら1980年代前半。インターネット技術なら1990年代後半から2000年代前半。フリージャズなら1960年代。ジェット飛行機なら1940年代後半。柔術なら高専柔道1920年代。ゲノム解析なら2010年代。日本画なら安土桃山時代。近代絵画は印象派1860年代以来、スタイル、考え方ごとに一気に進んだ時期があったようだ。A.I.は今がタイフーン期のただ中かもしれない。

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 分野はさまざまだが、タイフーン期には共通の現象があるように思う。まず、ある手法が発見されると、その手法を面白いと感じてのめりこむ少数の人々が集まる。彼らは相互に刺激を与え、ライバル意識と仲間意識の両方を持ち、その渦の中で新しい別の手法が次々と発見されていく。飛躍的に物事が進む。活動は非常に熱を帯び、異様な高揚感が共有される。そして、その渦のような運動の中から幾人かの巨人が生まれる。

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Source: Creative Commons/brett jordan

 では、タイフーン期がずっと続くかというと、そうではない。だんだんと、あるいはいきなり進歩の速度は落ち、一方でゲームのプレーヤーは増え、成果の総量は多いが、ひとりあたりの取り分は限られてくる。

 たとえば、1960年代後半から1970年代初期のロックなら、ボブ・ディランビートルズジミ・ヘンドリクスストーンズキング・クリムゾンといった巨人たちがいる。その後もビッグネームは数多く生まれたけれども、上記の巨人たちのように他を圧する存在ではなくなった。曲が劣るとか、演奏技術が劣るわけではなく、むしろ向上した部分は多いけれども、革命的業績を生み出すというふうではなくなる。

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 たとえて言うと、こんなふうではないかとおれは考えている。

 誰かが原野を発見する。その原野の可能性に気づいた少数の人が勝手勝手に耕し始める。その中で一部の人が水源や耕し方を発見し、わっと耕地を広げることに成功する。耕した面積は巨大で、他の人たちから巨人と見なされる。

 しかし、そのフィールドがいける、という情報が伝わると大勢の人が押し寄せる。フィールドはだんだんと区画整理され、ひとりあたりの耕せる面積は限られてくる。その中で収量を増やそうとするから、単位面積当たりの収量は初期の巨人たちより優れているが、全体量ではかなわない。何しろ、巨人たちの時代には原野だったので、好き放題に耕して耕地を広げられたが、区画整理された狭い土地から穫れる量は限られているのだ。

 タイフーン期がいつどんな分野で起きるのかはわからない。たまたまそこに居合わせて、原野を耕す能力と熱量を持っていれば・・・つまり、運がよければタイフーンに乗っかれるのだと思う。

ちょっと

 少し観察してみるとわかるが、日本語では言葉を弱めることが多い。おれも今、冒頭で「少し」と書いたけれども、「少しばかり」とか「やや」とか「もしかすると」などと言葉を弱めたり、ぼかしたりする使い方が多いのだ。「白髪三千丈」とか、「怒髪天を突く」とか、誇張する表現が多い中国語とは対照的である(といっても、おれは中国語の会話をできず、あくまで故事・慣用句についての知識しかないけれども)。

 この頃気になりだしたのだが、会話の中で「ちょっと」という表現をよく聞く。印象としては仕事の場で多い。「ちょっとこの紙に書きましたように、ちょっと5日までにちょっと仕上げる必要があります」などと、やたらと言葉にくっつく。えー、とか、あのー、のようなフィラー埋め草言葉。英語ならwellとかyou know)とも捉えられるが、ちょっと違う気もする(あ、ちょっとを入れてしまった)。

「ちょっと」と使う裏には、相手を恐れる心理があるとおれはニラんでいる。話しながら及び腰というか、逃げ腰なのだ。直接の摩擦を恐れるココロで、「ちょっと」を無意識のうちに挟み込んでしまうのだと思う。

 それにしても、「ちょっと」という言葉、以前はこんなに会話の中に入り込んでいただろうか。おれの注意がたまたま最近「ちょっと」に向かっただけでもともとよく使われる表現だったのか、それとも割にこの頃になって流行りだしたのか。

 これをお読みの方も、まわりの人の言葉遣い(あるいは自分の言葉遣い)を注意してみていただきたい。特に仕事の、多少肩の凝る場では「ちょっと」が多用されていることに気がつくと思う。

痒みの誕生

 おれはアトピー性皮膚炎で、子供の頃から現在までおおよそ半世紀にわたってカイカイカイカイと掻いてきた。おれの人生は痒みとの戦いであったといっても過言ではない(過言だが)。

 痒みという感覚は実に不思議で、最近の科学でもどういう仕組みで感じるのか、今イチ解明しきれていないらしい。

 そもそも、なぜ痒みなどという感覚が生物の長い歴史の中で続いているのだろうか。

 痛みはわかる。痛みは故障の信号であり、「そこはなんとかせんといかんですばい」と、別に福岡弁になる必要はないが、まあ、まずいことになっておる、今すぐなんとかしないといけない、という信号である。舐めるなり、体を休めるなり、絆創膏を貼るなり、腕の根元を縛るなりと痛みを、感じるたびに動物なり人間なりに手当てをしてきたわけだ(A.I.が本当にヤバい進化をするのは、自己複製と自動改変と痛みの感覚を備えたときだろう)。

 一方の痒みも、虫に刺されたとか、炎症(バイ菌の侵食)が起きているという故障の信号ではあるのだが、こっちのほうは実は手当てのしようがあんまりない。掻けば掻くほど事態が悪化するというのは、皮膚炎を患ったことのある人ならよくわかるだろう。まあ、人間ならキンカン塗ってまた塗ってなりなんなりとまだ手はあるが、人間以外の動物となると、本能に駆られてカイカイカイカイと掻いて、かえって悪化をまねくばかりである。場合によっては掻いた傷口からさらにバイ菌が入り込んで死に至ることだってあるわけで、そんなカイカイ遺伝子がなぜ進化のうえで残ってきたのか、不思議である。

 犬や猫が後ろ足でカイカイカイカイと掻きまくるのは、まあ、ノミなりシラミなりを取り払う効果があるかもしれない。よくわからないのは、ノミ、シラミ、あるいは蚊がわざわざ痒みを感じさせるような物質を犬や猫の血管に注入することで、自らの生存可能性を下げている。なぜそんな遺伝子が残っているのだろうか。痒み注入機能がないほうが血を吸うだけ吸ってまんまと逃げおおせるだろうに。

 進化というのは考え始めると不思議と好奇心のかたまりであある。そういえば、掻くと快感を覚えるという機能も、不思議な遺伝だ。