資本の論理(笑)と便器の数

 おれは東京の目黒近くに住んでいるから、東海道新幹線にはもっぱら品川駅で乗る。実家が京都にあるので、京都で下りることもままある。

 よく利用される方はご存知だろうが、このふたつの新幹線駅のトイレは小さい。したがって、よく列ができる。

 朝早くに品川で新幹線に乗るときは家で用を済まさず、「駅ですればいいや」と軽い気持ちで出るときが多い。しかし、朝の新幹線駅構内は出張に出かけるサラリーマンが多く、そのうちの少なからぬ割合が「駅ですればいいや」と考えた人々だから、必然的に混み合うことになる。おれは、品川駅で切羽詰まりながら我慢強く並んでいる人々を見ると、勤便、じゃないか、勤勉という言葉を思い浮かべる。

 一方、京都はご存知の通り、世界的な観光都市であって、多くの人が訪れる。しかるに、新幹線京都駅のトイレの小ささは、これがなぜ国際問題にならないのか、不思議なくらいである。

 想像だが、両駅の便器の数は、乗降客の平均値から割り出したんではないか。それではいかんのだ。便器の数は、平均からではなく、最大利用時刻におけるデータをもとにすべきである。なぜなら、排泄行為においては、最大マイナス平均イコール便意我慢度数イコール暴発リスク、だからだ。

 思うに、鉄道会社からすると、トイレはお金を生まずにコストばかりがかかる、邪魔施設なのだろう。トイレを大きくすれば、他の施設を小さくするか、余計な金をかけて駅舎を大きくしなければならない。運用コストも高つくだろう。我慢のできなくなった利用客が駅構内でスプラッタ的暴発悲劇を起こされても困るから、仕方なく設けているのではないかと思う。

 それでも、都内のように複数の交通機関が競争しているならば、好感度に影響するから、各社、それなりに便器の数を増やし、掃除も綺麗に行う。しかし、東海道新幹線は強力なライバルのない半独占事業だから、駅のトイレの整備など、なおざりにされているんではないかと勘ぐりたくなる。

 ま、単に建築の取り都合でなんとなく決めたのかもしれんけど。