「地獄で仏」といって、救われた気分を指す。
しかし、あらためて考えてみると、地獄で仏に会うとどうなるのだろうか。
血の海に浮かんでは沈められる亡者。仏様がそばを通った。
「あ、仏様! 助けてください!」
仏様のそばの菩薩が「いかがいたしましょう」とそっと訊く。
「ほっとけ」
・・・ダメになりつつあることは自分でもわかっている。
まあ、お釈迦様が地獄に来たとして、物理的なかたちで救うことはまずないだろう。
苦しみを訴える亡者たちに、
「人間には四つの思うにまかせぬ苦しみがある。生・老・病・死である。そこから救われるには四つの真理を知る必要がある。
一つ目は苦諦。一切は苦であるという真理。
二つ目は集諦。苦には原因があるという真理。
三つ目は滅諦。苦は滅するという真理。
四つ目は道諦。苦を滅する道があるという真理。
本来、執着すべきでない自己に執着すること。これが苦の原因である。この苦を滅して涅槃の世界に入る方法が仏道である。さらば」
これで救われるのだろうか。しかしまあ、こうやって書いてみると、地獄というのがこの世で生きることの比喩であることもわかってくる。
革命家が地獄で上に書いたお釈迦様の説教を聞いたら、どう判断するだろう。
「一つ目は苦諦。一切は苦であるという真理。確かに、地獄は苦だな。
二つ目は集諦。苦には原因があるという真理。鬼と閻魔が悪い。
三つ目は滅諦。苦は滅するという真理。鬼と閻魔だって不死身じゃないということか。
四つ目は道諦。苦を滅する道があるという真理。鬼と閻魔はやっつけられる。
か、か、革命だ!」
とまあ、そんなふうに仏の道はなかなか行いがたいものなのかもしれない。