ルーツでないところの貢献

 いつだったか、どこでだったか、「自分のところがルーツでないものについては自由な発想ができるので、面白いものができやすいんじゃないか」というようなことを書いたことがある。

 寿司屋がいい例で、日本では寿司屋というとある程度「かくあるべし」みたいな型がある。白木のカウンターがあって、ネタが並んでいて、魚の種類も決まっていて、主人が「アイヨ!」なんて答える。客のほうでそういう店を好むということもあるし、店のほうでもそういう店にしようとする。変な店を作ると客が「本格じゃないね」と寄りつかない。
 ところが、これがアメリカなんぞに行くと、寿司屋かくあるべし、という不文律があまりないものだから、何だかいろいろ奇怪な店ができて、奇怪なものを食べさせているようである。もっとも、「奇怪」というのは寿司屋原理主義に縛られた日本で生まれ育ったからそう感じるのであって、「あんなものは寿司屋じゃねえ!」とこっちで小馬鹿にしているうちに、あっちはあっちで勝手にどんどん進化して、いずれは日本側がねたむようなものができあがるかもしれない。知らんけど。
 イギリスのロックや、ジャマイカのレゲエやクラブ系の音楽もそうだ。イギリスというとロックの本場のような捉え方もあるだろうけれど、60年代あたりのイギリスではロックは輸入されたスタイルであったろうと思う。プレスリーのようなロックはアメリカのものだし、ロックの源流となったR&Bもブルースもアメリカのものである。それらを一生懸命コピーして、おまけに「お、こうやるとイカすじゃん!」と源流のアメリカでは思いもつかないような変更を、ルーツを持たないがゆえに勝手気ままにやらかした結果、サイケデリックだのグラムロックだのプログレだのが生まれたのだろうと思う。ああいうものはロックにそれなりの伝統があり、「かくあるべし」という観念があったアメリカでは生まれなかったろう。もっとも、アメリカのほうも今度はイギリスの斬新なスタイルを輸入して(たとえば、後期のビーチボーイズは相当にイギリスの影響を受けていると思う)、ここらへんの影響関係は複雑怪奇ではある。
 おれは苦手なんだが、日本のアニメ文化というのもルーツでないがゆえに発展したところがあるのだろう。アメリカのディズニーのようなアニメの伝統からは巨大な目の女子高生が「テヘ」なんて舌を出すような面妖な、じゃなかった、独特な表現のものは生まれなかったろう。
 文化の混合というようなことが言われるけれども、必ずしも輸入された文化が元々の文化とぶつかったりとけあったりということではなくて、もっと単純に、「かくあるべし」という縛りがない分、輸入したほうは勝手気ままに遊べるということもあると思う。南米のサッカーなんかももしかしたらそうかもしれませんね。
 どこかの国で、我が国の義太夫を輸入してオリジナルに仕立ててくんないだろうか。相当面白いものができると思うんだが。ニューヨークのラッパーの皆さん、いかがでしょうか。