文化の遺伝子

 文化の遺伝子とか文化のDNAというようなことを書く人がいて、ちょっとひっかかる。おそらくは比喩なのだろうけれども、そうだとしてもあまりよくできた比喩とは思えない。

 結構複数の文化の影響を我々は受けるものだし(何をもって「この文化」「あの文化」と区別するかも大問題だが)、一代のうちでも文化からの影響度合いが違ってきたりもする。たとえば、ハンバーガーに代表されるようなアメリカ文化というのは米軍基地のあった一部地域を除いて、戦後もしばらく経ってから日常生活に入ってきたように思う(1960年代から1970年代頃)。あるいは、不良の出で立ちは、私が凄まじい美少年だった1970年代から1980年代には、学ランにリーゼント的なものばかりだったが、1990年代あたりからYo! Yo!的なヒップホップ系のスタイルが入ってきた。じゃあ、日本的な文化が廃れたかというと(何を持って日本的とするかもまた大変な問題だが)、そうでもなくて、若い人でも結構空気を読んだり、出る釘を全員で全力でたたきつぶそうとしたりする。遺伝子のほうはどうかというと、ウィルスによって書き換えられるような現象が時にあるとしても、一代のうちに他からそうころころと影響を受けることはないだろう。

 あるいは、文化からの影響ということには本人の意志も作用するように思う。たとえば、「日本伝統文化の好きな私」みたいな自己イメージに動かされて、お茶、舞い、お香にはまっていく、なんていうことは結構ありそうである。しかし、遺伝子を自己の意志で変更できるなんていうミュータント的な話は聞いたことがない。

 文化の遺伝子とか文化のDNAという言い回しに、おれはちょっと眉をひそめたくなる。遺伝子やDNAという言葉は何かこう、すでに決定!みたいなイメージを与えるからだ。ナチスが生物の進化論をねじまげて文化の純粋性とか民族の優越みたいな話にしてしまったような発想にもつながるように思う。