一人称を変える

 少し前からこのブログでは一人称に「おれ」を使っている。それまでは「わたし」を使っていたのだが、少し感じを変えてみようと思った。正直なところ、まだちょっと慣れていなくて、自分で読み返しても違和感がある。まあしかし、もうしばらく続けてみようと思う。

 日本語には一人称がたくさんある。「おれ」「わたし」「ぼく」がよく使われるが、その他にも「わし」「我」「小生」「おいら」「我輩」「おら」「自分」「わて」「あたい」「朕」「麿」「うち」「それがし」「わらわ」「筆者」「本官」……他にもまだまだあるだろう。英語の一人称がほぼ「I」(my, me, mine)に限られるのとは対照的である。よく知らないが、中国語も一人称が多いようだ。朝鮮語は2つだそうである。

 日本語の一人称の使い分けのおもしろいところは、一人称を変えるだけで語り口の印象が変わることだ。

おれはタバコを吸った。
わたしはタバコを吸った。
ぼくはタバコを吸った。

 それぞれ印象が違う。同じ「おれ」という音であっても、

おれはタバコを吸った。
オレはタバコを吸った。
俺はタバコを吸った。

 ひらがな、カタカナ、漢字で印象は微妙に変わる。

 おそらく、我々(とは、日本語文化圏で育った人間、くらいの意味)は、一人称によって、自動的にその人の立場や態度、心理状況を推察するようにできているのだと思う。

 逆に言うと、自分の立場や態度、心理状況に沿って、あるいは人にどう見られたいかによって、日本語文化圏で育った人間は一人称を使い分ける。同じ人間であっても、いささか改まった場では「わたし」を用いるし、無害な人間と受け取ってもらいたいときは「ぼく」を使い、胸襟を開いたり少々尖ってみせたりしたいときには「おれ」と言う。わしら(ここでは少々くだけてみせたいので「わしら」を使いました)はそうした作業をしばしば意識せずに行う。おのれと相手の位置関係にしたがって使い分けるという点では、敬語の使用法に似ている。

 でまあ、ここから先は少々話が桂馬跳びとなるのだが、「本当の自分」とか「自分らしく」なんていう言い草がある。しかし、一人称の使い分けを考えると、定まったひとつの「自分」なんていうのはなくて、相手との位置関係によって我々はいろいろに自分の姿を変えているんじゃないかと思う。あえて言うなら、「おれ」的な自分、「わたし」的な自分、「ぼく」的な自分くらいなら見定められるかもしれない。

 カメレオンなわしら。「わし」的な自分、「我」的な自分、「小生」的な自分、「おいら」的な自分、「我輩」的な自分、「おら」的な自分、「自分」的な自分、「わて」的な自分、「あたい」的な自分、「朕」的な自分、「麿」的な自分、「うち」的な自分、「それがし」的な自分、「わらわ」的な自分、「筆者」的な自分、「本官」的な自分……いっそ「本当の自分」なんてなくて、それぞれの一人称に基づくありようがある、と言ってもいいかもしれない。

 不定形、ゾル状のわしら。「本当の自分」と呼んでいるものは、鏡を見ながら作ってみせる自分の顔みたいなものじゃないかしらん。