コンビニやスーパーで食べ物とトイレ用洗浄液を買う。さて、あなたはこのふたつを一緒の袋に入れるだろうか、別々の袋に入れるだろうか。
わたしは成り行きだ。
店員が別々の袋に入れようとしていたら、「一緒でいいですよ」と言うのも面倒だし、余計な手間をかけさせるのも何なので、別々に入れさせておく。
「別の袋にいたしますか」と訊いてきたら、「一緒でいいですよ」と言う。
何事もなるがままがよし。老子の教えである。嘘である。
一緒の袋に入れた場合、帰宅途中、何となく、釈然としない気分になる。
食い物とトイレ関係のものをくっつかせておいてよいのか、と、軽いカースト意識が出てしまうのだ。
もちろん、トイレ用洗浄液はまだ使っていない。トイレに置いてあったわけではないし、中味が漏れているわけでもない。
それでも感じるカースト意識。不思議なものである。
「ならば、最初から別々の袋に入れてもらえばよかろう」というご意見もあろうが、それも神経質をさらすようで嫌なのだ。自意識過剰というやつは、どうも不便である。
浄・不浄の感覚というのは、必ずしも現実の汚さとは関係ない。
例えば、女性のラックス・スーパーリッチな黒髪というものがある。
気分と状況によっては、軽く抱き寄せ、髪を撫でつつ、愛をささやいたってよい(耳元で「愛愛愛愛愛愛……」と唱えるのだ)。
ところが、その後でジーンズの裾をまくって、ブラシを持って風呂場へ行く。
排水口のステンレスの蓋を取ったとき、そこに、ラックス・スーパーリッチな黒髪がもさっと固まっていると、「見なんだらよかったー」となるだろう。
髪の毛は生えているといいのだが、抜けるとダメなのだ。
逆の例でいうと、清楚な美人でも、体内はトイレ状態と変わらない。おそらくは、もっとひどいくらいだろう。
しかるに、いかな汚物であっても、清楚な美人が内にひそかに秘めているうちはかまわないのである。
そうして、「彼女はわたしへの情熱を内に秘めているに違いない」と男はうぬぼれるのだから、勝手なものだ。
まあ、「臭いものには蓋」というのは、例外なく、人体一般に言えることではあるけれども。