間が持たない

 まずは黙ってこのムービーを見ていただきたい(別にわめきながらでもかまわないが)。

 スティーブ・カッツという人の動画だそうだ。もしかしたら有名な人なのかもしれないし、そうでもないのかもしれない。
 皮肉がキツく、ユーモアがあり、品とどこかにやさしさがあって、おれ好みである。ラストシーン以外は素晴らしい。
 実際、通勤電車に乗ると、スマホに見入っている人だらけで、このムービーのような奇異な光景に見える。
 もっとも、おれも電車の中でスマホを見ることがある。主に仕事からの帰りで、電車の中の退屈な時間をやり過ごそうと、主にFacebookにアクセスする。スマホを扱わない人からすると、おれも奇異な光景のひとつなのだろう。
 人がスマホに魅入られるのにはいくつもの理由があるのだろうけど、ひとつには何かしてないと間が持たないということもあるのだと思う。
 少し前は間が持たないときのための道具がテレビだった。ただし、テレビは家でないと見られない(この頃はそうでもないが)。持ち運べるという意味では週刊誌が今のスマホの役割を果たしていた。
 まあ、歩きながら週刊誌を読む強者(つわもの)はまずいなかったから、スマホの間つぶし力は週刊誌よりはるかに強力なのだろう。WALKMANなんかも、前スマホ的な間つぶし道具で、今はスマホと一体化した。
 この、「間が持たない」という感覚はいつ頃から生まれ、広がったのだろうか。比較的最近、せいぜい戦後この方くらいのことなのか、それとも昔から人々は間が持たなかったのか。昔の夜の縁台将棋(おれは落語でしか知らないが)なんかも間の持たなさの一種だったのかもしれないし、茶飲話やなんかもそうだったのかもしれない(井戸端会議は家事労働のながら作業だからちょっと違うが)。
 スマホに見入る人々の気味の悪さは画面と人の間で実際に何が起きているのか、ハタからはほとんどわからないところにあるのだろう。没入感が非常に強い。一緒の場にいるのに、その場に互いに存在していないかのような奇妙さ。そうして、スマホの画面の中で知人と「多様性の重要さ」について議論していたりしたら、それこそ皮肉な光景だと思う。

桜と梅

 東京では花見の季節を終えて早ひと月以上になる。今となってみれば、季節も落ち着いて、あの狂乱のアラエッサッサー状態はなんだったのかと思う(おれもあの時期にはいささか心浮かれるのだが)。
 おれは桜も好きだが、年をとって、梅もいいなあ、と感じるようになった。梅は桜と違って枝ぶりが面白いし、あの静かな佇まいも、そしてもちろん、花の色も香りもいい。
 桜はしばしば日本の象徴として扱われる。梅はそうではない。桜と梅を取り替えるとどうなるだろうか。
 負けてたまるかニッポン男児方面の衛星放送に「チャンネル桜」がある。取り替えると、「チャンネル梅」である。実にのどかだ。
 軍歌も変わる。「♪お前とおっれぇとぉはぁ、同期の梅ぇ木ぃ」。あまり戦意高揚にはつながらなそうだ。同期のうめき、というのも苦しそうでよくない。
 警視庁が桜田門にあることから、警察の紋章を「桜の代紋」とも言う。「梅の代紋」。迫力というものが全然ない。
 遠山の金さんの彫り物は「梅吹雪」。フリカケみたいである。
 梅はのどかだ。桜よりスケールは小さいけれども、梅が日本の象徴になる時代が来たら、それは平和な時代じゃないかと思う。

米朝とあの世

 桂米朝の落語が好きで、よく聞く。
 米朝は何年か前に亡くなり、そのとき九十くらいだったから、おれはほとんど同時代体験をしていない。何かの落語の会で他の落語家と座談する姿を見かけたくらいである。噺は、もっぱらCDからiPodに落として聞いている。
 だから、プロフィール的な紹介の仕方をするほかないけれども、戦後、ほとんど滅びかかっていた上方落語笑福亭松鶴(六代目)とともに立て直した偉大な人である(昭和二十五年頃、大阪の落語家は、松鶴米朝も含めて片手で数えられるほどという心細さだったそうだ)。博覧強記で知られ、学者肌のところもあり、噺の端々に知性の輝きが感じられる。
 ここからは一方的な親しみを込めて、米朝さんと呼ばせていただく。
 米朝さんの落語を聞くと、おれはふわーっといい心持ちになる。良い料理屋で、小さなグラスで口にする日本酒のような感じである。しゃきんとしたかすかな緊張感もあり、それがまた心地いい。同じ伝で言うなら、松鶴は居酒屋か焼き鳥屋で仲間とわいわい飲む燗酒かどぶろくの楽しさだろうか。
 テレビで弟子の桂ざこばがこんなことを語っていた。あるとき、米朝さんと道を歩いていて、ざこばがふと「師匠、あの世てあるんですかねぇ」と訊いた。米朝さんは「人間な、知らいでもええこともあんねんで」と答えたという。
 自分の話で恐縮だが、おれは二十代の頃まで、この世に神などいない、いるわけがないと思っていた。あの世などというものもなく、人間は死ねばただ無くなるだけ。神やあの世などいうものは人間が自分の都合のいいように作り上げた虚像である、などと考えていた。なぜなら、進化論にも、物理方面にも、医学方面にも神やあの世の存在を示す証拠はなく、むしろそれを否定するような状況証拠ばかりだから。
 こういうのを小賢しいというのだろう。小さい賢さ。一方で、「人間な、知らいでもええこともあんねんで」という米朝さんのちらえ方は大きい賢さだと思う。
 米朝さんがもし仏教のほうに進んだら、ありがたいお上人さまになったのではないか。

ジョナ・ロムーの葬儀

 昨晩は早く寝ようと思ったのだが、ふとしたきっかけでジョナ・ロムーの動画やら何やらを見出したら止まらなくなってしまった。
 ジョナ・ロムーニュージーランドラグビー選手である。90年代のオールブラックスラグビーニュージーランド代表)で大活躍した。おれはラグビーについて詳しくないが、おそらくラグビー界初めての世界的スーパースターだったのではないか。
 ロムーは身長196cm、体重120kgという巨体で、100mを10秒台で走る。怪物である。ポジションはWTB(ウィング・スリークォーター・バック)という後方サイド側のポジション。攻撃ではボールを受け取ると相手ゴール目指してサイドを一気に駆け抜ける役割だ。逆に守備ではトップスピードに乗った敵をタックルで止めなければならないことがしばしばある。
 今、「駆け抜ける」「止める」と書いたけれども、ロムーの場合は「ぶち抜く」「ぶっ飛ばす」と言ったほうがふさわしい。動画でそのプレーをご覧いただきたい。

 足の速さやパワーも圧倒的だが、全身これ闘志の姿が実に格好いい。
 ロムーは現役中から腎臓を患った。移植手術も行ったが、2015年に亡くなってしまった。まだ40歳だった。
 以下は、その葬儀の動画。ロムーの棺を、かつてのチームメイトやオールブラックスのOB達がハカで送る。ハカは元々マオリ族の戦士達が戦さの前に行う舞踊で、オールブラックスも試合前に相手チームを前にして舞う。

 おれは格別にロムーのファンだったわけではないけれども、このビデオを見るたびに震えてしまう。ジョナ・ロムーという最高の戦士を送るその姿にやられてしまう。「気持ち」とか「心」という言葉では表現できない。魂というものは確かにあると感じる。

納豆世界

 朝、ネバネバ糸を引く納豆飯をワシワシ食いながら、ふと思った。
「納豆菌が突然変異で大増殖を始めたら、世界はどうなるであろうか?」
 頭の奥にはJ.G.バラードSF小説「結晶世界」があった。
「結晶世界」はあらゆるものが文字どおり結晶化していく世界の話である。といっても、おれが読んだのは高校生か大学生の頃で、何しろ血気盛んな年頃だから、劇的展開の少ない「結晶世界」は少々退屈に思えた。ただ、(確か)結晶化した森の中を主人公が駆け抜けるシーンがあり、その美しいイメージは、読んでから三十年経った今ではおれの中で結晶化している。
 話を納豆菌大増殖世界に戻す。この世界では、突然変異を起こした納豆菌がありとあらゆる有機物を発酵させ、例のネバネバを作り出すのだ。動物もネバネバ。植物もネバネバ。プラスチックもネバネバ。当然、人間も納豆菌に触れると、脳から筋肉、内臓までネバネバ化するから、恐慌に陥った人間どもは納豆化して糸を引く世界から逃げ惑うのだ。ワハハハハ。ゾンビ映画を超える恐怖ではないか。
 当然、片方が納豆菌にひそかに侵されたカップルがチューなんぞしようもんなら、もう一方も納豆化してネバネバである。主人公の男の「いいのか。おれはもう侵されているかもしれないんだぜ?」というセリフに、「いいわ。あなたとなら納豆になれる」という女主人公の返しも期待できる。
 我ながら素敵だ。ハリウッドでCGを駆使して映画化してくれないだろうか。ただ問題は、ハリウッドの人々がネバネバ糸を引く納豆なる食べ物を理解できるかどうかである。

夢のアナキズム

 先週に続いてアナキズムの話。
 アナキズムの理想とする世界について歌った有名な曲がある。ジョン・レノンの「イマジン」だ。

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion, too
Imagine all the people
Living life in peace



(……)


Imagine no possessions
I wonder if you can

No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world



想像してごらん、国家なんてないと
そんなにむずかしくはないさ
何かのために殺したり死んだりすることもない
宗教もない
想像してごらん、すべての人が
平和に暮らしている



(……)



想像してごらん、所有なんてないと
想像できるかな
貪欲やハングリーになる必要もない
人類の兄弟愛
想像してごらん、すべての人が
すべての世界を分け合っている

 戦争やテロなど、強烈な暴力行為が起きるとよく「イマジン」が歌われる。そういうシーンを目にしたり耳にしたりするたびに、おれは皮肉な気持ちになる。皮肉なシーンだと思う。「イマジン」を平和についての歌となんとなく思っているのではなかろうか。国家がなく、所有もなく、兄弟愛のもとで分かち合って暮らす世界。「イマジン」は本当はアナキズムの理想を謳った歌なのである。
 ただ、もしアナキズムが実現したとして、それが幸福な世の中かというと、甚だ疑問だ。
 アナキズムの理想は、心身の健康な人がもっぱら想像するものだとおれは思う。少なくとも現代社会で、ひどい苦痛を体験した人はおそらくアナキズムに賛成できないのではないか。
 理由はおれが思いつくだけでも4つある。
 まず、大都市は確実に崩壊する。理由は割に単純で、権力機構がなければ下水を維持できず(あるいは下水を維持しようとすると官僚機構が必要になり)、伝染病が蔓延するからだ。そして、人が苦しむ。
 2つめに医療の不足による苦痛あるいは死。
 現在の経済は法律の強制力の下で動いている。政府がなくなれば法律が機能せず、経済は劇的に縮小するにちがいない。その結果、高度な医療システムは維持できず、医療で苦痛を癒している人には苦痛が舞い戻る。最大の問題は、乳幼児の死亡率が劇的に上がることだろう。乳幼児本人の苦痛や死の残酷さはもちろん、その親の嘆き、苦しみもどれほど深く、長いだろうか。
 人類は長い歴史をそうやって生きてきたのだ、などという意見は非常にのん気で無責任だと感じる。少なくともおれは、乳幼児はなるべく死なないほうがよいと思う。
 3つめとして、怯え。アナキズムの理想とする社会はもっぱら人間の善意や優しさに頼っているけれども、人間には身勝手さも狡猾さもスケベ根性もある。そうした「悪」を抑えるには宗教による強力な脅し(「地獄に落ちるぞ!」)か、コミュニティによる制裁(村八分の恐怖のような)が必要になるだろう。怯えが根底にある社会は、アナキストが考えるほどいいものだろうか(もっとも、今の社会も別の種類の怯えが根底にあるけれども)。
 最後に、飢え。アナキズム的なコミュニティがつくり出せる食物は限られる(科学技術の支援も、インフラの恩恵もなくなるから)。遠くに運ぶこともできず、飢餓が広がるにちがいない。
 ただ、幸か不幸か、アナキズムはおそらく実現できない。アナキズムを理想とする人がいても、国家体制を覆すのはまず無理だろうからだ。権力嫌いのアナキストは軍隊的な権力機構も嫌うから、秩序だった軍事行動を取れない。ゲリラやテロ行為は可能だが、ベトナム戦争テト攻勢のような大規模な軍事行動は不可能だろう。結果、彼らは市民社会にとって迷惑な、散発的な暴力行為に終始することになる。
 もしアナキズムにチャンスがあるなら、世界レベルでの核戦争か、地球レベルの大災害の後くらいか。いずれにしろ、巨大な苦痛と大量の死が伴う。
 人の夢と書いて「儚い(はかない)」。アナキズムの夢は儚い。

アナキズム入門 (ちくま新書1245)

アナキズム入門 (ちくま新書1245)

アナキズムは優しく、美しい

アナキズム入門 (ちくま新書1245)

アナキズム入門 (ちくま新書1245)

 森元斎の「アナキズム入門」を読んだ。5人のアナキストプルードンバクーニンクロポトキン、ルクリュ、マフノの生涯を追いながら、アナキズムとは何ぞや、を説き明かす内容である。ネット的な文体も織り交ぜつつ時に講談的に血湧き肉躍り、よい読書体験だった。
 各章の題名を書く。

革命−プルードンの知恵
蜂起−バクーニンの闘争
理論−聖人クロポトキン
地球−歩く人ルクリュ
戦争−暴れん坊マノフ

 いかにも面白そうではないだろうか。
 おれはこれまでアナキストの著作を読んだことがない。その思想の一端にでもふれるのはこの本が初めてだ。
 高校の世界史の教科書か参考書で(三十年以上前だ)プルードンバクーニンクロポトキンの名前を見た覚えはある。ほとんど思想内容にはふれてなかったように思う。考えてみればそれはそうで、国家権力である文部省(今は文科省)が、国家権力を否定するアナキズムを学習指導要領に盛り込むわけがない。
 知りもしないくせに、おれは「プルードン」「バクーニン」「クロポトキン」という名前を見て、暴力的でオソロしげな印象を抱く。我ながら興味深い現象だ。ひとつには、おれがガキの時分にセックス・ピストルズの「アナーキー・イン・ザ・UK」という破壊力バツグンの曲が流行ったせいもあるかもしれない。しかしそのせいばかりでなく、いろんなものを見聞き読むうち、おれには知らず知らずに「アナーキスト=暴力」というイメージが刷り込まれてしまったらしい。この偏見(世の空気みたいなもの?)の刷り込みのほうがオソロしい。
アナキズム入門」を読むと、アナキストの目指す世界はむしろ牧歌的なもののようだ。強圧的な国家権力がなく、人それぞれが相応に働き、小さめの共同体の中で話し合いで調整する世界。もちろん、そういう世界をつくるためには国家権力を倒さなければならないから、アナキストは時に蜂起もすれば殺人だってするわけだが、理想自体はむしろ心優しいイメージである。
 アナキズムの理想は美しい。しかし、残念ながら、アナキズムを実現できるかどうか、仮に実現できたとしても人が幸福になれるかというと、難しいのではないかとおれは思う。それについては来週にでも書こうと思う。