ソーシャルな歌舞伎座

 ひさびさに歌舞伎座へ行った。

 コロナ禍で、ようやく10月から歌舞伎が再開したそうで、なかなかの厳戒態勢だった。

 入場するときにチケットの半券は自分でもぎり、係員の持つ箱の中に入れる。手のアルコール消毒と体温チェック。まあ、このあたりは普通である。

 座席はひとつおきに座るようになっていて、座れない席は長いリボンのようなもので表示されている。場内での食事は禁止。これは座席だけでなく、待合のベンチでも同じで、弁当や軽食、お菓子の類は売っていない。「会話はお控えください」とのこと。

 通常、歌舞伎座は昼の部、夜の部の二部制だが、今は四部制。一部につき一幕で、1時間弱か1時間ちょっと。幕ごとの総入れ替え制で、場内の掃除と消毒のため、幕間は1時間以上とっている。とにかく徹底している。

 1時間の観劇というのは正直、物足りない。おれが昨日見たのは一条大蔵譚と義経千本桜 川連法眼館だが、一条大蔵譚のほうは主人公が阿呆のふりをしているという前段がカットされていたので随分とつまらない筋になってしまった。義経千本桜は狐忠信を演ずる中村獅童の、余裕と必死さが同居する芝居(矛盾した表現だが)が素晴らしく、見応えがあった。同世代のせいか、なぜか親近感を覚えた。一幕ごとに入れ替え、となると、一幕だけでの完成度(満足度)の高い演目でないともたないのかもしれない。

 大向こうからの掛け声が禁止されているので、役者が決めても、拍手で応えるしかない。歌舞伎の楽しさの結構な部分が役者と大向こうの掛け合いにあるのだなあ、と実感した。

 コロナ禍で仕方がないのだが、今回禁止されていた大向こうの掛け声、飲食、おしゃべり、それらが揃って歌舞伎の魅力ができているのだと、失ってみてよくわかった。