リベラルを喜ぶこと

 政治的にリベラルであるということについては、物事のひとつの捉え方、あるいは立場、もしかしたら成り行きなので、どうとも言えない。


 ただ、リベラルであることを、安易に誇るような言い方を聞く/読むと、ちょっとどうなのか、と思う。


「リベラル勢力を結集し〜」、云々。
 結集する前に、そのリベラルとは何なのか、考え直してみてもいいように思う。


「リベラル」には自由という意味があり、それで何となくいい印象を抱かれているのかもしれない。自由は、何たって現代では重要な聖句だ。
 あるいは、もしかしたら外来語、横文字的であるところがカッコよく見えるのかもしれない。
 どちらも気分的だと思う。


 わたしの考えるリベラルとは、こういうことである。


 古い日本家屋に住んでいるとする。


 枯れ葉舞い散る美しい家だが、相当、ガタが来ている。
 通気性はよすぎて、すきま風ひゅーひゅーである。土埃も吹き込む。
 軒下の地面からの湿気を吸って、畳はいつも湿っている。
 今の家族の人数で住むには、ちょっと大きすぎる。税金も維持費もかかる。
 間取りは、あまり合理的とはいえない。
 耐震性は非常に不安である。
 瓦は古びすぎて、いつ落っこちてくるかわからない。


 これは住むには不便だ、壊してマンションに建て替えよう、一時的には費用がかかるが長期的にはお金が入ってくる、というのが、リベラル的な物の捉え方だと思う。


 マンションはモダンである。合理的で、機能的で、狭い土地に大勢の人が住める。おそらく、中長期的には経済収支もいい。


 しかし、古い日本家屋は、一度壊したら、二度と戻らないのも確かだ。
 同じ設計をしたら再現できないこともないが、それはあくまで“もどき”である。しばしば嘘くさいコピーとなる。


 古い日本家屋で得ていた感覚は、失ってから「しまった、あれはよいものだった」と思っても、取り返すことはできない。


 古い日本家屋を維持するのがいいのか、建て替えるのがいいのかは、家族の現在過去未来やお金の問題、土地柄の問題等々いろろある。ケース・バイ・ケースで(便利な言葉だ)、何とも言えない。


 それにあくまでたとえ話であり、たとえに頼りすぎるのは危険ではある。


 しかし、古い、不便な日本家屋なら、とにかく建て替えて機能的な建物にするのがよい、とは言えないだろう。


 リベラルというだけでヨロコんでいる節の文章を読むと、そんなことを感じる。
 リベラルであるとは、ある種の乱暴さと、もしかすると無神経さをも持っている、ということのようにも思う。