誰にでも、変身願望はある。
――などと書くと、ついさらっと読み流してしまいそうだが、別に調査したわけでもなく、本当のところはわからない。
3年前に90歳で亡くなったうちの婆ちゃんに変身願望があったのか、今朝方、ゴミ捨て場で会釈した、誰だかよく知らない近所の人に変身願望があるのか。
ンなことは知らない。
病床でアーウー言ってる婆ちゃんに「変身したい?」と訊くのも何だったし、ゴミ置き場で会釈した、誰だかよく知らない近所の人に「変身したいッスか?」と訊くのにも勇気がいる。
だから、冒頭のような書き方は、「日本人なら誰もが」の類と同じで、極めていいかげんな文章だ。
いい加減なわたしが言うのだ。間違いはない。
と、いい加減に書いておいて、問題は変身願望である。いや、願望はとりあえず置いておいて、変身だ。
例えば、わたしが凄まじい美男子に変身したとする。
楽しいだろうか。
凄まじい美男子に変身して、まず、わたしがやらなければならないことは、期日が迫った仕事である。
今と同じようにパソコンに向かって、カタカタと文章を打つ。すぐに飽きて、寝ころんだり、漫画に逃避したり、そのまま寝てしまったり、言い訳の電話をしたりする。罵声を浴びせられる。
実際には、なん〜〜〜〜も変わらないではないか、と思うのだ。
困るのは、打ち合わせである。
凄まじい美男子であるところのわたしが打ち合わせに出かける。会議室に入って、不審そうな顔をしている仕事相手に「あの、凄まじい美男子に変身してしまいましたが、実は稲本なんです」と言う。
納得してもらえる自信はない。
せっかく凄まじい美男子になったんだから、ナンパに出かける。
かわいい女の子を見つけて、「お嬢さん。凄まじい美男子のわたしと、お茶でも飲みに行きませんか?」と声をかける――でいいのだろうか。凄まじい美男子になったことがないので、よくわからない。
あるいは、夜、バーに出かける。カウンターに腰掛ける。
少し離れたところに座っている美女を指して、「マスター、あちらの女性に、マティーニを」と言う。
マティーニを凄まじい美男子から贈られた美女はどういう反応を示すのだろう?
経験がないので、想像がつかない。
もっと渋く、黙ってグラスをくっと押し、カウンターの上を美女に向かって滑らせる。
急に来たもんだから、美女はあっと驚いて、体を引く。
そうして、グラスは端の壁に激突して、悲惨な結末に至る――とまあ、そんなところが関の山のように思う。
なにせ、やってみたことがないから、どのくらいの力加減がいいのか、わからないのだ。
凄まじい美男子はどうも難しいようなので、「変身。トォー!」。
絶世の美女になってみた。
鏡を見る。凄まじい美女がそこにいる。しかし、それはわたしなのだ。ウィンクすれば、鏡の中のわたしもウィンクするし、鼻の穴に小指をつっこめば、鏡の中のわたしも鼻の穴に小指をつっこむ。
ブラウスを引っ張って、胸を見てみる。
形のいいオッパイがそこにある。腕を差し入れて揉んでみる。揉んだ感触と揉まれた感触はあるが、どっちも自分なのだ。
せっかくだから、「あはん」と声を出してみる。虚しさが漂うだけだろう。
結局、変身してみても、中味がわたしのままでは、事態はややこしくなるだけだ。
つまり、わたしがわたしであることは、わたしであることの悲劇であり、喜劇なのである。
深い言葉に読めたかもしれない。でも、実際にはいい加減に書き飛ばしただけである。