H.G.ウェルズ

 H.G.ウェルズの「宇宙戦争」を読んだ。映画のほうは見ていない。


 以前に読んだのは中学生くらいのときかもしれない。だとしたら、なんとまあ、二十数年ぶりということになる。
 当時生まれた子供達は普通、社会人だ。書いてから、軽く気が遠くなった。


 で、感想だが、今でも十分、面白い。
 愛だの、恋だの、チューだのが出てこないところもわたし好みだ(どうして、世の小説家は物語にやたらめったら恋愛を絡ませたがるのだろう?)。
 人間性やら、人間の本質やら、心理やらを、まるでそれが小説の任務であるかのように追求しないところもいい。


 では、「宇宙戦争」が、バック・ロジャース的に通俗的だとか、脅かし目的だとか、薄っぺらいかというと、そうでないところがこの作家の不思議なところだ。


宇宙戦争」を読むのは二十数年ぶりだが(「今、読むと通俗的でコケ脅し的だった」と感じるのが嫌だったのだ)、「タイムマシン」や「モロー博士の島」は、5年に一度くらいは読む。
 そうして、読むたびに面白い、と思い、安っぽさを感じない。独特の感覚、優れた建築物に似た魅力がある(繰り返すけど、なぜか世の中では褒めてもらえる「人間性の探求」なんぞをしているからじゃないよ)。
 また、読み物として古くささを感じない。


 古くささを感じないというと、夏目漱石もそうだ。書かれている風俗は、もちろん、当時のものだし、言葉遣いに現代では使わない表現もあるけれど、読み物としての古さはない。


 ウェルズは1866年生まれで、そのちょうど100年後にわたしが生まれた。
 だから何だということもないのだが、しかし、こういうのは妙にうれしいものだ。自己愛の類だろう。


 夏目漱石は1867年生まれだから、ウェルズとほぼ同い年だ。
 ウェルズの処女作「タイムマシン」は1895年、「宇宙戦争」は1898年、「月世界最初の人間」は1901年。
 漱石は1900年から1903年まで英文学研究のため、イギリスに留学している。当時、「宇宙戦争」や「月世界最初の人間」を現地で読んだろうか。


 漱石の「吾輩は猫である」は1905年、「坊っちゃん」は1906年。
 小説家としてはウェルズのほうがやや先輩である。


 えーと、何でこんなことを書いているんだっけな。
 ともあれ、ふたりとも、生きた時代はさほど変わらず、文章も古びず(ウェルズのほうは訳文だが)、読み物としても古びていない。小説の方向性はまったく違うのだけれども。


 その理由は何か。
 そんなこと、わたしにわかるわけがない。ワハハ。参ったか。

疑問

 以下は「宇宙戦争」のネタバレを含むのだが、ネタがバレたからといってつまらなくなる小説ではない。


 しかし、結末を知るのが嫌な人は、勝手にしてくれ。まあ、他の人にも勝手にしてもらいたいのだけれども。
 つまりは、全員勝手にしていただきたいのだが、言われなくても、勝手にするだろう。だから、こちらも勝手にやる。まったく、勝手なもんだ。


宇宙戦争」では火星人が地球の細菌類に感染して、「あれ、ま」といううちに全滅してしまう。
 科学が発達している割には、間抜けというか、無頓着というか、「火星は住みにくくなってので、んじゃ、ま、地球にでも」と、疫学方面のことはまったく考慮せずにやって来る。割合にのんきで安易なやつらだ。


 ゴジラ現象というか、ウルトラマン現象というか、小説では、火星人が攻めてくるのはイギリスだけである。
 騒ぎが終わった後でヨーロッパから援助物資が送られてくる描写があるから、火星人は他の地域には降り立たなかったらしい。そうして、勝手に病気で死んでしまう。


 では、火星人の集団が、シベリアサハラ砂漠のど真ん中に着陸していたらどうなったのだろうか。


 巨大戦闘マシーンが高熱ビームを発射し、毒ガスをまき散らしても、まわりは深い針葉樹林か、砂漠。
 せいぜい、シベリアデルス・ウザーラが毒ガスにやられるくらいで、2週間くらいのうちに、火星人は全滅してしまう。


 そうして、世に知られぬままに、火星人の侵略は勝手に終わってしまうのだ。


 ここまで書いて気づいた。
 そうか、デルス・ウザーラの家族は、火星人の毒ガスで死んでしまったのか。


 何のことやら、わからない人も多いだろう。黒澤 明の「デルス・ウザーラ」を見てください。美しく、悲しい人だ。


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