史記の構成

 司馬遷の「史記」を読んだ。といっても、おれには原語で読む知識はなく、漢文訓読点で読む能力もなく、小竹文夫・小竹武夫による現代語訳を読んだ

史記 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

史記 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

 現代語訳とはいっても、8巻本でおそらく3千頁ほどにはなるだろうから、結構時間がかかった。夜寝る前にちびちび読んで、さて、半年ほどもかかったろうか。

 内容は面白く読める部分と、さほどでもないところに分かれる。春秋の覇者や、戦国の縦横の駆け引き、秦と漢の交替期の話はやはり劇的で面白い。

 さほど面白くないところもあるのは司馬遷が歴史をさまざまな角度から網羅・記録しようとしているからだ。歴史記録という点で、史記はとてもよくできている。構成はこんな順序だ。

 

・本紀 黄帝以降、漢の武帝までの天子あるいはそれに準ずる人物の系譜

・書 礼・楽・律・暦・天官・封禅・河渠・平準の記録(土木史である河渠と経済史である平準以外、おれには何を言っているのかさっぱりわからなかった)

・表 年表(ただし、ちくま学芸文庫の現代語訳ではなぜか肝心の年表部分を省いている)

・世家 諸侯の家の系譜

・列伝 さまざまな人物達の記録

 

 中華の中心という意味で最も重要な天子の歴史である本紀が最初に来て、今日で言うところの学問の歴史が次に来る。そのあと、年表。諸侯の家それぞれの歴史がその次で、最後が人物中心の列伝。なお、分量で見ると、列伝が全体のおおよそ半分を占める。

 本来の史記では年表が最初にあったという説もあるそうで、なるほど、そのほうが全体の整理はつきやすい。しかし、上の構成は天子、学問、年表、諸侯……となっていて、それはそれで司馬遷のプライオリティとも捉えられる。

 本紀や世家は天子や諸侯の歴史だから、その中には歴史上の有名人物が出てくる。しかし、彼らのさまざまなエピソードについて本紀や世家では書けない。そこで、列伝という人物本位のパートが設けられ、さまざまな話を通じて歴史上果たした役割や人物像が見えてくる仕掛けになっている。

 司馬遷が偉いなあ、と思うのは、列伝の中に匈奴(当時の北方にいた強力な遊牧民族)や南越、東越、朝鮮といった異民族の記録や、酷吏(法に厳しい役人)、任侠の徒、大商人の列伝まで残していることだ。

 今日のアカデミックな歴史の記録とはもちろん違うけれども、司馬遷はとても理性的だと思う(時の皇帝である武帝に都合の悪い記録も書いている)。史記は歴史を網羅するという構想と構成の点でも(もちろん内容でも)本当に優れた書である。

感情と倫理

 タイトルを書いて、笑ってしまう。大げさである。まあ、おれの書くことだから、内容は大したことにならないはずだ。
 このところ、「知情意」という視点で物事をとらえることを時々してみている。知は理屈、知性。情は感情、感性。意は意志とも言えるし、道徳、倫理とも言える(ここのところがまだ整理できてない)。知性、感性に照らしあわせるなら品性だろうか。ここでは、仮に倫理ということにしておく。
 話は変わるが、たまに家の留守電に世論調査の自動音声が残されていることがある。「あなたは安倍政権を支持しますか。支持しませんか。支持する方は1を……」などと問答無用で問うてくる。
 先日も世論調査の自動音声が留守電に録音されていて、ふいに腹が立った。見ず知らずの機械が人の家に電話してくるのも失礼だし、安倍政権を支持するのしないのといきなり突っ込んだ話を切り出すのも失礼ではないか。新聞社かテレビ局か知らんが、公器だからといって、人のうちに土足であがるようなことをしていいというわけではなかろう。人には人の道があるのではないか。
 とまあ、そんなふうに思ったのだが、ふりかえってみると、これは自分に都合のいいすり替えである。
 おおもとは、世論調査の自動音声が不愉快だ、というおれの感情だった。それを、「マジ、ムカつくー」だけでは賛同を得にくいと思うのか、「大勢の人間にとって」という話にすり替えた(失礼云々のところ)。あげくのはては人の道まで持ち出し、感情の話を倫理の話にすり替えてしまった。正義の側に身を置こうというのだ。卑怯者の行いである。
 この手のすり替えは、結構よく行われるように思う。己の怒りや悲しみの代償を求めて、倫理を持ち出すのである。あまり褒められたことではない。(←また倫理を持ち出してしまったが。)

空気を読むという行為

 会議などで「空気を読む」ということがよく行われる。白状すると、おれも割に読む。読んだ後、どうふるまうかはいろいろである。
 あの「空気を読む」という行為、どういう仕掛けになっているのかなあ、と時折、考えることがあった。山本七平に「『空気』の研究」という本があって読んでみたのだが、何を言っているのかよくわからなかった(おれの圧倒的能力不足のせいだろうが)。
 先日、小田嶋隆のコラムをたまたま読んだらこんなことが書いてあって、ああ、そういうことだったのね、と得心がいった。

私の思うに、大多数の日本人は、なにごとにつけて常に多数派であるようにふるまうべく自らを規定している人々なのであって、それゆえ、少数派である瞬間が、仮に生じたのだとしても、その時点で即座に彼は、自分の考えなりライフスタイルなりを捨てて多数派に鞍替えするのであるからして、結局のところ、われわれは、永遠に多数派なのである。

→ 原文はこちら
 なんだ、簡単な理由じゃないか。常に多数派であろうとするから、今現在どんな意見や感じ方が多数派であるかを感知しようとする。それが「空気を読む」という行為であるらしい。
 おれは日本以外の国に住んだことがないし、外国人が大勢出るような会議にも参加したことがないから、常に多数派であるようにふるまうのが日本人の特性なのか、それとも他の社会の人々にも大なり小なりあることなのか、わからない。また、得心がいったのもあくまでおれの直観であって(これがまたよく間違うのだ)、論理的に説明する能力はないし、経験的に説明するほどのやる気はない。
 空気を読む行為にはもっと細かい仕掛けが働いているのかもしれない。また、常に多数派であるようにふるまうことを世の少年少女たちがどういうかたちで学んでいくのかにも、ちょっと興味がわく。しかし、長年の疑問が氷解したので、今日はご報告だけにとどめて、チャオ。

「空気」の研究 (山本七平ライブラリー)

「空気」の研究 (山本七平ライブラリー)

間が持たない

 まずは黙ってこのムービーを見ていただきたい(別にわめきながらでもかまわないが)。

 スティーブ・カッツという人の動画だそうだ。もしかしたら有名な人なのかもしれないし、そうでもないのかもしれない。
 皮肉がキツく、ユーモアがあり、品とどこかにやさしさがあって、おれ好みである。ラストシーン以外は素晴らしい。
 実際、通勤電車に乗ると、スマホに見入っている人だらけで、このムービーのような奇異な光景に見える。
 もっとも、おれも電車の中でスマホを見ることがある。主に仕事からの帰りで、電車の中の退屈な時間をやり過ごそうと、主にFacebookにアクセスする。スマホを扱わない人からすると、おれも奇異な光景のひとつなのだろう。
 人がスマホに魅入られるのにはいくつもの理由があるのだろうけど、ひとつには何かしてないと間が持たないということもあるのだと思う。
 少し前は間が持たないときのための道具がテレビだった。ただし、テレビは家でないと見られない(この頃はそうでもないが)。持ち運べるという意味では週刊誌が今のスマホの役割を果たしていた。
 まあ、歩きながら週刊誌を読む強者(つわもの)はまずいなかったから、スマホの間つぶし力は週刊誌よりはるかに強力なのだろう。WALKMANなんかも、前スマホ的な間つぶし道具で、今はスマホと一体化した。
 この、「間が持たない」という感覚はいつ頃から生まれ、広がったのだろうか。比較的最近、せいぜい戦後この方くらいのことなのか、それとも昔から人々は間が持たなかったのか。昔の夜の縁台将棋(おれは落語でしか知らないが)なんかも間の持たなさの一種だったのかもしれないし、茶飲話やなんかもそうだったのかもしれない(井戸端会議は家事労働のながら作業だからちょっと違うが)。
 スマホに見入る人々の気味の悪さは画面と人の間で実際に何が起きているのか、ハタからはほとんどわからないところにあるのだろう。没入感が非常に強い。一緒の場にいるのに、その場に互いに存在していないかのような奇妙さ。そうして、スマホの画面の中で知人と「多様性の重要さ」について議論していたりしたら、それこそ皮肉な光景だと思う。

桜と梅

 東京では花見の季節を終えて早ひと月以上になる。今となってみれば、季節も落ち着いて、あの狂乱のアラエッサッサー状態はなんだったのかと思う(おれもあの時期にはいささか心浮かれるのだが)。
 おれは桜も好きだが、年をとって、梅もいいなあ、と感じるようになった。梅は桜と違って枝ぶりが面白いし、あの静かな佇まいも、そしてもちろん、花の色も香りもいい。
 桜はしばしば日本の象徴として扱われる。梅はそうではない。桜と梅を取り替えるとどうなるだろうか。
 負けてたまるかニッポン男児方面の衛星放送に「チャンネル桜」がある。取り替えると、「チャンネル梅」である。実にのどかだ。
 軍歌も変わる。「♪お前とおっれぇとぉはぁ、同期の梅ぇ木ぃ」。あまり戦意高揚にはつながらなそうだ。同期のうめき、というのも苦しそうでよくない。
 警視庁が桜田門にあることから、警察の紋章を「桜の代紋」とも言う。「梅の代紋」。迫力というものが全然ない。
 遠山の金さんの彫り物は「梅吹雪」。フリカケみたいである。
 梅はのどかだ。桜よりスケールは小さいけれども、梅が日本の象徴になる時代が来たら、それは平和な時代じゃないかと思う。

米朝とあの世

 桂米朝の落語が好きで、よく聞く。
 米朝は何年か前に亡くなり、そのとき九十くらいだったから、おれはほとんど同時代体験をしていない。何かの落語の会で他の落語家と座談する姿を見かけたくらいである。噺は、もっぱらCDからiPodに落として聞いている。
 だから、プロフィール的な紹介の仕方をするほかないけれども、戦後、ほとんど滅びかかっていた上方落語笑福亭松鶴(六代目)とともに立て直した偉大な人である(昭和二十五年頃、大阪の落語家は、松鶴米朝も含めて片手で数えられるほどという心細さだったそうだ)。博覧強記で知られ、学者肌のところもあり、噺の端々に知性の輝きが感じられる。
 ここからは一方的な親しみを込めて、米朝さんと呼ばせていただく。
 米朝さんの落語を聞くと、おれはふわーっといい心持ちになる。良い料理屋で、小さなグラスで口にする日本酒のような感じである。しゃきんとしたかすかな緊張感もあり、それがまた心地いい。同じ伝で言うなら、松鶴は居酒屋か焼き鳥屋で仲間とわいわい飲む燗酒かどぶろくの楽しさだろうか。
 テレビで弟子の桂ざこばがこんなことを語っていた。あるとき、米朝さんと道を歩いていて、ざこばがふと「師匠、あの世てあるんですかねぇ」と訊いた。米朝さんは「人間な、知らいでもええこともあんねんで」と答えたという。
 自分の話で恐縮だが、おれは二十代の頃まで、この世に神などいない、いるわけがないと思っていた。あの世などというものもなく、人間は死ねばただ無くなるだけ。神やあの世などいうものは人間が自分の都合のいいように作り上げた虚像である、などと考えていた。なぜなら、進化論にも、物理方面にも、医学方面にも神やあの世の存在を示す証拠はなく、むしろそれを否定するような状況証拠ばかりだから。
 こういうのを小賢しいというのだろう。小さい賢さ。一方で、「人間な、知らいでもええこともあんねんで」という米朝さんのちらえ方は大きい賢さだと思う。
 米朝さんがもし仏教のほうに進んだら、ありがたいお上人さまになったのではないか。

ジョナ・ロムーの葬儀

 昨晩は早く寝ようと思ったのだが、ふとしたきっかけでジョナ・ロムーの動画やら何やらを見出したら止まらなくなってしまった。
 ジョナ・ロムーニュージーランドラグビー選手である。90年代のオールブラックスラグビーニュージーランド代表)で大活躍した。おれはラグビーについて詳しくないが、おそらくラグビー界初めての世界的スーパースターだったのではないか。
 ロムーは身長196cm、体重120kgという巨体で、100mを10秒台で走る。怪物である。ポジションはWTB(ウィング・スリークォーター・バック)という後方サイド側のポジション。攻撃ではボールを受け取ると相手ゴール目指してサイドを一気に駆け抜ける役割だ。逆に守備ではトップスピードに乗った敵をタックルで止めなければならないことがしばしばある。
 今、「駆け抜ける」「止める」と書いたけれども、ロムーの場合は「ぶち抜く」「ぶっ飛ばす」と言ったほうがふさわしい。動画でそのプレーをご覧いただきたい。

 足の速さやパワーも圧倒的だが、全身これ闘志の姿が実に格好いい。
 ロムーは現役中から腎臓を患った。移植手術も行ったが、2015年に亡くなってしまった。まだ40歳だった。
 以下は、その葬儀の動画。ロムーの棺を、かつてのチームメイトやオールブラックスのOB達がハカで送る。ハカは元々マオリ族の戦士達が戦さの前に行う舞踊で、オールブラックスも試合前に相手チームを前にして舞う。

 おれは格別にロムーのファンだったわけではないけれども、このビデオを見るたびに震えてしまう。ジョナ・ロムーという最高の戦士を送るその姿にやられてしまう。「気持ち」とか「心」という言葉では表現できない。魂というものは確かにあると感じる。